
収蔵品について
現在、高野山霊宝館では、国宝21件、重要文化財148件、和歌山県指定文化財17件、重要美術品2件、合計188件、約2万8千点を収蔵し、未指定品ともなると約10万点を数える収蔵量を誇っています。
昭和36年(1961年)には大宝蔵と呼ばれる収蔵庫が増設され、昭和59年(1984年)、平成15年(2003年)と続いて、近代的な収蔵庫が設立されました。
昭和36年(1961年)には大宝蔵と呼ばれる収蔵庫が増設され、昭和59年(1984年)、平成15年(2003年)と続いて、近代的な収蔵庫が設立されました。
ご注意
- これらの宝物は、常時、展示されているわけではありません。企画展・大宝蔵展に即して出品される場合があります。
- 画像の無断使用はできません。
書籍等に掲載を依頼される場合は【写真などの利用について】をご参照ください。
主な収蔵品
絵画(仏画)

国宝 一幅
仏涅槃図
金剛峯寺/応徳3年/平安時代
釈尊が沙羅双樹の下にて入滅する情景を描くもので、古来より涅槃会の本尊として用いられてきた。
本図は応徳三年(1086年)の墨書銘があり、多くの涅槃図の中で現存最古の作である。またその優雅で気品あふれる表現は、日本仏画の最高傑作と呼ぶに相応しい名画である。
本図は応徳三年(1086年)の墨書銘があり、多くの涅槃図の中で現存最古の作である。またその優雅で気品あふれる表現は、日本仏画の最高傑作と呼ぶに相応しい名画である。

国宝 三幅
阿弥陀聖衆来迎図
有志八幡講/平安~鎌倉時代
阿弥陀如来を中心に諸聖衆が楽器を奏でながら、往生者を迎えにくる情景を三幅からなる大画面に描いた来迎図の傑作として殊に有名である。

国宝 三幅
五大力菩薩像(金剛吼)
有志八幡講/平安時代
鎮護(ちんご)国家を祈る仁王会の本尊として祀られ、もとは五幅揃いであったが、明治21年(1888年)の大火で二幅が焼失し、現在、三幅が伝えられている。
制作年代は平安時代中期までさかのぼるものと思われる。

重要文化財 一幅
武田信玄像
成慶院/桃山時代
長谷川等伯(1539年~1610年)の若い時の筆になる武田信玄像である。像主は堂々とした体躯で、剃髪、眉上り眼光鋭く、豊かな口ひげをたくわえ、頬ひげを長くはやし、乱世を戦い抜いた武将の気骨が見事に描出されている。

重要文化財 一幅
浅井長政夫人像
持明院/桃山時代
浅井長政の夫人お市の方は織田信長の妹で美人の誉れ高かった女性であったが戦国時代の荒波に翻弄された人物としてよく知られている。
本図は浅井家の菩提寺である持明院に浅井久政・長政像とともに施入されたものである。
本図は浅井家の菩提寺である持明院に浅井久政・長政像とともに施入されたものである。
彫刻(仏像)

国宝 一基
諸尊仏龕
金剛峯寺/中国唐時代
弘法大師空海が中国から請来されたと伝えるもので、七世紀頃の作。香木(白檀材)を三分割し、それぞれを蝶番でつなぎ、釈迦如来を中心にして諸菩薩などを細かく彫刻する。
両扉となる龕を閉じれば、携帯できるように工夫されており、枕本尊とも呼ばれている。
両扉となる龕を閉じれば、携帯できるように工夫されており、枕本尊とも呼ばれている。

重要文化財 一躯
不動明王坐像
金剛峯寺/平安後期
伽藍不動堂(国宝)の元本尊で、八大童子と共に祀られていた。左目をやや細め、口元からは上下の歯牙が露出している。痩身な体躯に、膝部に見られる流麗な衣文線など、平安後期の作風が見てとれる。

国宝 一躯
八大童子立像(矜羯羅童子像)
(運慶作)金剛峯寺/鎌倉時代
八大童子像の内の一躯。寺伝では建久9年(1198年)運慶の作と伝えられており、その作技などからも運慶乃至は運慶工房で製作された可能性は極めて高い。

国宝 一躯
八大童子立像(制多伽童子像)
(運慶作)金剛峯寺/鎌倉時代
伽藍不動堂本尊不動明王坐像と共に祀られていた八大童子像の内の一躯。不動明王の使者としての役割を担う。その凛々しい表情は、出色の出来映えを示している。

重要文化財 一躯
大日如来坐像
金剛峯寺/平安初期
伽藍西塔の元本尊で、金剛界の大日如来である。
西塔は仁和三年(887年)に創建されたものと伝え、本像はその当初像と考えられる。高野山における数少ない平安初期像として大変貴重である。
西塔は仁和三年(887年)に創建されたものと伝え、本像はその当初像と考えられる。高野山における数少ない平安初期像として大変貴重である。

重要文化財 一躯
不動明王坐像
正智院/平安初期
檜材の一木造。頭に載せる蓮華(頂蓮)が大きく、両目を見開き、身構える姿勢が特徴。奥行きのある体躯からは重量感が伝わる。高野山に現存する不動明王中、最も古い雄作である。平安初期の作。

重要文化財 一躯
孔雀明王像(快慶作)
金剛峯寺/鎌倉時代
伽藍孔雀堂の元本尊で、後鳥羽法皇の御願により仏師快慶が正治二年(1200年)に造立したもの。孔雀の背に乗るという絵画的な姿を、仏像彫刻として見事に完成させている。
書跡

写真上:上巻巻頭、写真下:下巻巻末
国宝 2巻
聾瞽指帰(ろうこしいき) 弘法大師筆
金剛峯寺/平安時代
弘法大師の著作で、本巻はその自筆本である。内容は儒、道、仏三教について三人の仮托人物に論ぜしめたもので、儒教をべつ毛先生、道教を虚亡隠士、仏教は仮名乞児が語り、儒道仏三教の優劣を論じ、仏教の妙理を説いている。大師が発心出家の意を親戚知己の間に表明したものという。
序文に、「干時平朝御宇 聖帝瑞号延暦十六年窮月始日」とあることから、大師二十四歳の著作であることが判明する。
料紙は縦に簾目(すだれめ)のある上質の麻紙(まし)を用い、書体は行草体を中心とし、まま雑体書風を交え浄書されている。書風は晋唐の行草体をよく学んだと思われる筆致で、やや右肩上がりに、力強く書かれている。
本巻を補訂改題したといわれる『三教指帰』とは序文、十韻の詩が異なるほか、多少の異同がある。下巻末には夢窓国師の跋と澄恵の寄進状を附す。これらによれば、本巻は貞和二年(1346年)、国師が大覚寺の寛尊法親王から拝領し、西芳寺を経て仁和寺に伝わり、天文五年(1536年)仁和寺経蔵から高野山御影堂に納められたことがわかる。
序文に、「干時平朝御宇 聖帝瑞号延暦十六年窮月始日」とあることから、大師二十四歳の著作であることが判明する。
料紙は縦に簾目(すだれめ)のある上質の麻紙(まし)を用い、書体は行草体を中心とし、まま雑体書風を交え浄書されている。書風は晋唐の行草体をよく学んだと思われる筆致で、やや右肩上がりに、力強く書かれている。
本巻を補訂改題したといわれる『三教指帰』とは序文、十韻の詩が異なるほか、多少の異同がある。下巻末には夢窓国師の跋と澄恵の寄進状を附す。これらによれば、本巻は貞和二年(1346年)、国師が大覚寺の寛尊法親王から拝領し、西芳寺を経て仁和寺に伝わり、天文五年(1536年)仁和寺経蔵から高野山御影堂に納められたことがわかる。

大方広仏華厳経巻第五五
国宝 4296巻
金銀字一切経
金剛峯寺/平安時代
天治三年(1126年)三月二十四日の藤原清衡の中尊寺建立願文には「奉納金銀泥一切経一部」とあり、これに相当する一切経が現在、国宝となって金剛峯寺に伝わっている。大部の経典の中には、最も古いもので永久五年(1117年)の奥書があり、建立願文より以前より書写されはじめていることがわかる。
紺紙に銀の界線を引き、これに金字、銀字を一行おきに交書したもので、世に「中尊寺経」とも、発願者の名前から「清衡経」とも呼ばれている。見返絵は大部分が金銀泥書きの釈迦説法図を描くが、中には経意をあらわした宝塔楼閣、山水、動植物、人物など変化に富んでいるのも特徴である。
紺紙に銀の界線を引き、これに金字、銀字を一行おきに交書したもので、世に「中尊寺経」とも、発願者の名前から「清衡経」とも呼ばれている。見返絵は大部分が金銀泥書きの釈迦説法図を描くが、中には経意をあらわした宝塔楼閣、山水、動植物、人物など変化に富んでいるのも特徴である。

国宝
宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集
全298巻15冊(又続宝簡集七八巻 阿弖河庄上村百姓等言上状)
宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集は、高野山に伝来する最重要な古文書類を巻子本や冊子装として編纂したもので、高野山史はもとより日本史にも欠くことができない古文書群。
写真は建治元年(1275年)10月28日付けで、阿弖河庄(現、和歌山県有田郡清水町)の農民が、地頭(湯浅とその一族)の非道を十三箇条にしたためて荘園領主(円満院と寂楽寺)に訴訟した書状。本状は教科書にもよく掲載されており、「ミミヲキリ ハナヲソギ」の一文は特に有名。
写真は建治元年(1275年)10月28日付けで、阿弖河庄(現、和歌山県有田郡清水町)の農民が、地頭(湯浅とその一族)の非道を十三箇条にしたためて荘園領主(円満院と寂楽寺)に訴訟した書状。本状は教科書にもよく掲載されており、「ミミヲキリ ハナヲソギ」の一文は特に有名。

国宝
源義経自筆書状
平安時代/宝簡集巻第33巻所収
義経(よしつね)が高野山の訴えに対して、認めた自筆の書状である。平氏が西海に没しようとする時期のこと、高野山の所領であった阿弖河庄(あてがわしょう)が横領される事件が起った。この一件に対し、都にて代官を務めていた義経が、高野山側の訴えを認めた時のもの。

重要文化財 1巻
町石建立供養願文
金剛峯寺/弘安八年(1285年)
高野山の町石は、何時の頃か参詣者のための道しるべとして木製の卒塔婆が山麓の慈尊院から山上まで建てられた。それが長年の風雪で朽ちはてたので遍照光院の院主覚こうが発願勧進し、文永二年(1265年)から建治三年(1277年)までかかって石製に改めた。この願文は、弘安八年(1285年)十月二十一日の町石落慶供養時の供養願文で、鎌倉時代の本格的な願文の一つである。筆者は世尊寺第八代の藤原行能と伝える。

重要文化財 1巻
大和州益田池碑銘並序
高野山釈迦文院/平安時代
天長二年(825年)に完成した大和州益田池(奈良県橿原市)の建碑揮毫を依頼された空海が、自ら撰文揮毫したものの模本と考えられているものである。本巻は五色の絹24枚に篆・隷・行・草・雑体の書体を交えて152行に大書したものである。
工芸(仏教)

国宝 1合
沢千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃
金剛峯寺/平安後期
平安時代後期の作で、蒔絵技法を駆使した唐櫃として名高い。全体を黒漆塗とし、各種の金粉を蒔き分け研ぎ出して、沢に遊ぶ千鳥の文様をあらわしている。もともと経巻を納入していたものと思われる。

重要文化財 1合
紙胎花鳥蒔絵念珠箱
(付属念珠) 金剛峯寺
全体に和紙と麻布を交互に貼り重ねて形成し、その上に漆を塗る紙胎の十二弁花形印籠蓋造りの念珠箱である。表裏全面に黒漆塗りを施し、さらに金粉を蒔いた平塵地に牡丹枝文と蝶文を散らしている。内部には、弘法大師が唐に渡った際、順宗皇帝から賜ったと伝えられる二連の念珠が収められ、一連は白地に赤の波状線模様を施した蜻蛉玉、一連は薄茶の扁平な密柑形の古い技法で作られたガラス玉の念珠である。

重要文化財
金銅仏具
金剛峯寺/平安時代
密教修法において密教法具(仏具)は欠くことができない。元来はインドの武器であり、後に密教の法具として受容され、行者の煩悩を砕破する象徴となる。これら密教法具の先端の鉾数によって独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵と称される。また五鈷杵や独鈷杵の一端に鈴を付けたものを五鈷鈴、独鈷鈴などと呼ぶ。

重要文化財 1基
鋳出銅板三尊仏像
金剛峯寺/奈良時代
奥之院御廟垣内の向かって左後方付近の土中から明治時代末期に金銅宝篋印塔(下図)とともに発見された銅板三尊像である。中尊は説法印、両脇時は右手を上げ左手をささげた立像を鋳出し、押し出仏の原形と考えられている。奈良時代の作品である。

重要文化財 1躯
金銅菩薩立像
金剛峯寺/白鳳時代
昭和三十八年五月に奥之院の灯篭堂手前石段の右手付近から出土した金銅菩薩像である。一部に欠損が認められるが、出土の仏像としては保存状態は良好で優品に属する。銅の一鋳造りで、宝冠に化仏坐らしきものが認められることや、左手に宝瓶の一部が残存する点などから、観音菩薩像と推測されるもので七世紀後半頃の制作と考えられる。

重要文化財 1基
金銅宝篋印塔
金剛峯寺/鎌倉時代
奥之院御廟の垣内の向かって左後方付近の土中から明治時代末期に発見された金銅宝篋印塔である。宝篋印塔の塔身には金剛界四仏の種子があらわされ、基壇には「大師入定奥院埋土中安置高野山八葉峰上南保又二郎入道遺骨也弘安十年(1287年)六月二十二日卒」との遺骨者南保又二郎入道の銘文が彫られている。

重要文化財 1巻
比丘尼法薬埋納願文
金剛峯寺/平安時代
昭和39年奥之院御廟付近から、三重の容器に納められて比丘尼法薬の埋納経が発見された。この願文には永久二年(1114年)の銘があり、比丘尼法薬という人物が納め願いを込めて経典を書写し、陶製などの容器に詰めて、地中に埋納したことが判明した。850年余の時を越えて発見されたが驚くほど保存状態は良好である。