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高野山 霊宝館(れいほうかん)

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収蔵品紹介

仏に関する基礎知識:密教の仏について

密教の歴史については、解説書から研究書などにいたるまで、たくさんの本が出版されていますので、ここではあまりふれずにおきたいと思いますが、一応、概略的に少し記させて頂きます。

仏画像仏教は、紀元前5世紀から4世紀頃に北インドの釈迦族の王子であるゴータマ・シッダールタが、深く人生の問題について悩み苦しみ、難行苦行のすえ、菩提樹下でついに悟りを開き、その悟りの内容を人々に説いた教えをいいます。つまり「仏」が説いた「教(おしえ)」ですので、「仏教」と呼ばれます。

その後、長い年月を経てインド固有の信仰と神々とも融合しながら、やや仏教とは趣を異にする密教という教えが同じインドで興りました。その時期はおおよそ紀元7世紀頃に確立したといわれています。この密教とは「秘密仏教」、「秘密教」の略称で、インドの仏教思想を継承しつつ、神秘性・象徴性・儀礼性の三要素を一定の体系により組織したもので、土俗的(どぞくてき)・呪術性をも重んじるものでした。

密教の教えが盛んになるにともないチベットや中国に伝播し、それぞれ土俗(どぞく)信仰などと融合しながら独自な発展をとげるのですが、日本にもこれら密教関係の経典が7世紀頃には断片的に入ってきていました。しかしこの時期は、未だ密教そのものが体系的に確立していなかった時代で、そのころの密教を現在では「雑部密教」(雑密)といっています。

9世紀の初頭に中国から経典・仏具・仏像・曼荼羅などを持ち帰り、密教を体系化して日本文化の中に、宗教的・思想的に確立したのが、弘法大師空海(くうかい)です。空海(くうかい)の密教は、7世紀のはじめ頃にインドで成立したとされる『大日経(だいにちきょう)』と同じ7世紀後半頃に成立した『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』の二大経典をよりどころとしています。この元々別系統の経典であったといわれる両部の経典を体系化し、確立した密教を「正純密教(せいじゅんみっきょう)」(純密)といいます。

弘法大師によって、真言密教とともに五大明王に代表される如来の使者「明王尊」を新しく伝えられるなど、大師以前に伝えられていた仏の数とは比較にならないほど多くの仏が伝えられました。

古代インドでマハ−ヴァイローチャナと呼ばれていた大日如来、アチャラナータと呼ばれ中国で不動尊(無動尊)と漢訳された不動明王、また、観音、地蔵菩薩が篤い信仰をあつめました。

これらの数多くの仏は、その働きや役割に応じて如来・菩薩・明王・天の呼称をもって区別されています。真言密教では、大日如来によってさまざまな仏が統合されていることが説かれています。また、大日如来のこの世の全ての生命を生かす大いなる慈悲や智恵の働きを、諸尊が大日如来の応化身(おうげしん)として、それぞれの誓願にもとづき衆生を救済しながらその働きを分担しています。

さらに密教の諸尊は、衆生との結縁をもって私達が本来そなえている仏性を目覚めさせ、仏の境地に達せさせるよう導いていると説かれます。

このような大日如来を中心とした諸尊の役割や働き、また各尊間の関係などを尊像で展開図示したものが両部(両界)曼荼羅です。この曼荼羅は、私達の肉体を他にして大日如来はなく、また大日如来によって私達が生かされていることを、理屈ではなく実感として受けとめるため、手に印契(インゲイ)を結び、□に真言を唱え、心を仏の境地に専注する三密行を修し即身成仏をうるために修する観法の本尊となります。

以上のように、密教がわが国で体系付けられ、信仰されたことによって、仏像・仏画等々今日で言う「密教美術」が多く伝わってきているのですが、仏像・仏画を一般でいうところの「美術」とするのには、どうしても違和感があるのも事実です。現在では「宗教美術」「神道美術」「仏教美術」などと信仰の対象を単に「美術」として記される場合が多いように思います。

それはそれで良いとは思うのですが、ここ「仏に関する基礎知識」では美術品と割り切らずに、本来、信仰から生まれたものですので、各、仏・菩薩の役割や信仰をも含めて紹介する型式をとっています。

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