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高野山 霊宝館(れいほうかん)

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高野山と文化財

高野山文化財年表 大正時代

  • 1913年 大正2年
    • 1月1日
      高野山に初めて電灯が点く。
    • 3月26日付
      重文・工芸脇指(銘国重)一口金剛峯寺が指定される。
    • 4月14日付
      重文・工芸剣(銘真守)一口金剛峯寺、重文・工芸短刀(銘国光)附、木地蒔絵脇指拵一口金剛峯寺が指定される。
    • 6月
      宝性院・無量壽院が合併して「宝寿院」となる。宝性院は現大師教会境内地。
  • 1914年 大正3年
    • 1月18日
      宝物保存会総裁、理事等が決定。佐伯宥純(金剛峯寺参事)上京し、発起人諸氏と協商を遂げ、松方候爵を名誉総裁に戴き、田中伯を総裁に、三井八郎次郎男、下條正雄を副総裁と決定された。
      益田孝、近藤廉平、岡崎邦輔、高橋義雄、朝吹英二、馬越恭平、野崎廣太、根津嘉一郎、郷誠之助、高田慎蔵、下條正雄の11氏と佐伯宥純の都合12名が理事となった。さらに理事を15名にするべく横浜、大阪より2名追加依頼することに決定。
    • 3月26日付
      重文・脇指(銘国重)金剛峯寺が指定される。
    • 4月8日〜20日
      東京品川御殿山益田孝宅にて開催する「大師会」に宝物を出陳し、観者に高野山に宝物館の必要性を説いた。宝物は3月23日に送り24日東京新橋駅に到着。
    • 4月17日付
      重文・工芸剣(銘国広・興山上人寄進)一口蓮華定院が指定される。
  • 1915年 大正4年
    • 3月1日
      この年、高野山登山鉄道が汐見橋から橋本まで開通する。大正14年には椎出まで延長。昭和4年極楽橋、同五年ケーブルカー開通。
    • 3月5日付
      宝物館(霊宝館)建設位置として元心南院跡と決定した。
    • 3月5日付
      大法会中開催予定の宝物展覧会場を宝寿院(無量寿院)と決定し、目下宝物係長坎宥智監督の下に同院に大修理を加えつつある。
    • 3月15日
      文部省の国宝指定は既に大体の調査を終了し、古社寺保存会の於て各決定す。大正3年度国宝指数は140余件に達した。
    • 3月26日付
      重文・工芸刀(銘繁慶)付属繁慶寄進状二、二口金剛三昧院が指定される。
    • 4月3日
      東京文科大学教授文学博士高楠順次郎氏登山。正智院に投じ、同院書庫に入り高野山大学教授長谷部隆諦師と共に梵語その他古経書写本等を調査。
      4日、高楠博士の助手として、文学士橋本進吉氏登山。
    • 4月14日
      午後6時より普賢院において、長谷部隆諦、高楠順次郎、橋本進吉各氏の講演が行われた。
  • 1916年 大正5年
    • 4月11〜5月10日
      二度目の宝物館建設趣旨徹底のための「宝物展覧会」を金剛峯寺にて開催する。
  • 1917年 大正6年
    • 7月15日
      黒板勝美博士金剛峯寺に一山住職を召集して、宝物館設立を目指した宝物調査の必要性を説く。
    • 8月12日〜30日
      黒板勝美博士を主査に第一次文化財綜合調査が行われる。大正9年まで継続。
      調査員、黒板勝美、荻野仲三郎、「彫刻・絵画」福井利吉郎、藤懸静也、「書籍文書」渡辺世祐、植松安、鷲尾順敬、「工芸」奥田誠一、係員主任藤村密幢、曽山龍誠、三沢猛隆、井村米太郎、目黒隆見、山内龍明、堀尾熊千代、樅木徳太郎、平田精一、宮尾、他。臨時雇員中学生長柄英信(群馬光明寺徒弟)、木田寛暁(徳島斉田寺徒弟)、新丸快宝(大阪大乗坊徒弟)、沖秀憲。
    • 9月19日〜10月11日
      和歌山県庁理事官等により第二次宝物調査が行われる。
  • 1918年 大正7年
    • 8月15日〜30日
      第二次文化財綜合調査が行われ、価値あるものが新たに発掘された。
  • 1919年 大正8年
    • 4月15日
      高野登山自動車株式会社により、高野口駅より椎出までの間を乗合自動車の運行が始まる
    • 7月25日〜8月27日
      第三次文化財綜合調査を行う。
    • 8月24日〜26日
      金剛峯寺において「高野山霊宝展」を開催し、150余点の宝物を展示。
  • 1920年 大正9年
    • 4月15日付
      重文・絵画愛染明王像一幅金剛峯寺、重文・絵画阿弥陀如来像一幅成福院、重文・絵画紅玻璃阿弥陀如来像一幅正智院、重文・絵画八字文殊曼荼羅図一幅正智院、重文・絵画普賢延命菩薩像一幅正智院、国宝・書跡法華経巻第六(色紙)一巻金剛峯寺、重文・彫刻地蔵菩薩坐像一躯常喜院が、それぞれ(旧)国宝に指定される。
    • 8月6日〜8月20日
      第四次文化財綜合調査が行われた。御影堂、勧学院、金剛峯寺、山内32ヶ寺が対象。
    • 9月
      金剛峯寺「山水図」(県指定)を富岡鐵齋が描き、大正10年8月5日に奉納。
    • 9月30日
      霊宝館の建物が竣成す。アルバム
  • 1921年 大正10年
    • この年、十一面観音立像(宝亀院)、兜跋毘沙門天像(竜光院)が修復される。
    • 1月
      第四・六代首相松方正義侯爵87歳、紫雲殿の扁額字揮毫。扁額完成は5月7日。
    • 3月21日
      千手院観音堂合体不動・地蔵菩薩像を霊宝館放光閣に安置。
    • 5月8日
      観翠会員(下村観山、小室翠雲、高田早苗他14名)来館。
    • 5月15日
      霊宝館開館式を挙行。初代館長として金剛峯寺座主土宜法龍大僧正が就任。以後館長には歴代座主が就任。
    • 7月28日
      黒板勝美博士親王院に宿し、夜に講演し、高野山大学図書館設立の必要性を説く。
    • 7月28日〜8月18日
      文化財綜合調査(宋版一切経、高麗版一切経)を行う。
    • 8月1日〜10日
      霊宝館にて「第二回特別拝観日」と銘打って特別陳列展開催。
    • 8月5日
      富岡鐵齋翁、南山宝刹図、弘法大師宝印を霊宝館に寄付。
    • 9月21日〜
      霊宝館にて「第四回特別拝観日」特別陳列展開催。
  • 1922年 大正11年
    • この年孔雀明王像、不動堂不動明王坐像、大日如来及両脇持像、説法印阿弥陀坐像、奥の院不動明王坐像、大日如来像(安養院)、薬師如来坐像(五大院)、阿弥陀三尊像(五坊寂静院)、五智如来像、十一面観音、不動明王立像(金剛三昧院)、大日如来像(釈迦文院)、地蔵菩薩坐像(常喜院)、薬師如来坐像(高室院)、毘沙門天立像(普賢院)、薬師如来坐像(龍泉院)が美術院にて修理される。修理場所は勧学院。
    • 4月5日付
      重文・建造物金剛三昧院経蔵一棟金剛三昧院、重文・建造物金剛峯寺奥院経蔵一棟金剛峯寺が指定される。
    • 7月17日付
      未指定品修理完成。
      五大力菩薩像、薬師如来像、浄土曼荼羅図(光台院)、釈迦・文殊・普賢三幅、楊柳観音像、尊勝曼荼羅図(宝寿院)、金剛薩タ像、弥勒菩薩像、愛染曼荼羅図、八景手鏡(金剛峯寺)、二十五菩薩像(清浄心院)、不動尊像(西門院)。
    • 7月30日〜8月13日
      文化財綜合調査整理を行う。
    • 10月6日〜8日
      霊宝館において覚海大徳七百年遠忌紀年「高野山先徳肖像展覧会」開催。
  • 1923年 大正12年
    • (重文)押出阿弥陀如来三尊像を大正12年、奥の院御廟修理工事中に発見。掘り出したる人物は宮尾忠太郎、井戸伝之助。
    • 1月
      富岡鐵齋翁86歳、放光閣扁額揮毫
    • 3月14日〜
      大日如来三尊(谷上大日堂旧像歟)修理のため撥遣し、直ちに勧学院修理工場へ移す。
    • 3月26日
      夜八時頃、金剛峯寺木屋炎上す。
    • 3月28日付
      重文・工芸太刀(銘国広)附、沃懸地蒔絵太刀拵金具正阿弥常吉作一口金剛峯寺が指定される。
    • 4月2日
      正智院全焼。多くの宝物が焼失した。脇士文殊普賢木像二躯、舎利弗阿難木像二躯、四社明神木像一躯、不動明王木像一躯、阿弥陀如来木像一躯、脇侍観音勢至木像二躯、弁財天木像一躯、大黒天木像一躯、三宝荒神木像一躯、達磨図一幅、釈迦十六羅漢像(牧渓筆)三幅、八祖大師像一幅、両界曼荼羅図二幅、五字文殊像一幅、唐金四面器、八面器、仏具、真鍮仏具、護摩器、灯籠等仏具類多数、大般若経六百巻、弘法大師弟子譜、紀伊名所図絵七巻の39点焼失す。
    • 4月10日付
      豊太閤太刀銘(国広)国宝(旧)に指定され修理の上、靖国神社遊就館に勧告出陳するよう命令発布。
    • 4月16日
      午前10時頃、宝善院焼失。放火事件によるものと記録されている。檜皮がトタン葺きに改められるのをねらった、ブリキ職の犯行という。
    • 4月28日
      鎌田観応座主霊宝館長となる。
    • 5月1日
      北谷阿弥陀如来坐像(地蔵院)、安養院大日如来像、五大院薬師如来坐像が修復のため勧学院へ運び込まれる。
    • 5月10日
      国宝調査が行われる。
    • 5月26日
      秩父宮殿下御来館。本館前に高野槇(金松)を記念植樹される。
    • 6月2日付
      金銀字一切経国宝指定のための調査を黒板勝美博士が行うに当たり、糊剥がれが多く、採寸作業困難により糊付けを行う旨、決裁。
    • 7月5日
      橋本春陵、赤不動尊(明王院赤不動写)一幅寄付に付き礼状を出す。4日に奉納寄付す。
    • 7月29日〜8月17日
      文化財綜合調査。
    • 8月1日〜10日
      霊宝館特別展観開催。
    • 8月3日〜4日
      荻野仲三郎氏が宝寿院調査、阿弥陀聖衆来迎図調査、宝庫防湿設備の件にて来館。
    • 8月4日付
      重文・絵画鶏図屏風六曲一双宝亀院、重文・絵画山水屏風六曲一双金剛峯寺が指定される。
    • 9月1日
      午前11時58分、関東大震災。最大震度6、M7.9。この震災で黒板勝美博士等に依って大正5年8月から12年まで継続されつつあった5700点に及ぶ高野山文化財綜合調査の調査書が焼失。数年にわたる努力が水泡に終わった。昭和34年7月11日付毎日新聞にも記載。
    • 9月23日〜13年5月29日
      国宝・絵画阿弥陀聖衆来迎図模写を高屋尚哲画伯、助手、若井道義、井芹萩泉が本王院において作成。大正14年6月18日には開眼供養。同年10月4日には補筆を行う。
    • 11月
      泉智等座主霊宝館長となる。
    • 12月14日付
      大正12年9月1日の関東大震災に伴い、文部省宗教局に貸出中の古文書の内、調査室に持ち出していた数点が焼失。
      「大條三冊、衆評書留(元禄元年)、行人方ヘ遺取口上(元禄二年)、阿部豊後守殿御登山之留書(元禄四年)、興山寺ヘ遺取之留書(元禄四年)、御条目目付興山寺へ遺取二留書、興山寺遺取之留書、上使御登山ニ付行人方与往復留書、行人方取遺留書(元禄五年)、行人方取遺留書(元禄六年)、行人方取遺留書(元禄七年)、大門造畢行方往復(元禄十六年)、行人方取遺留書(貞享元年)、同(貞享三年)、興山寺へ遺取之留書(貞享五年)、興山寺ヘ遺取口上之留書(元禄三年)」。他は倉庫に保管しており無事であった。
    • 12月21日付
      各所有寺院の仏像が国宝修理所美術院において修復される。
      金剛三昧院不動明王立像・十一面千手観音立像)・五智如来坐像、常喜院地蔵菩薩坐像・胎内銘発見、釈迦文院大日如来坐像、高室院薬師如来坐像、五大院薬師如来坐像、五坊寂静院阿弥陀三尊立像・台座裏書墨書発見、蓮上院不動明王立像、龍泉院薬師如来坐像、安養院大日如来坐像、普賢院毘沙門天立像、谷上大日如来坐像・飛天光背・天蓋(天蓋に宝暦九年墨書銘有)、説法印阿弥陀如来坐像台座光背・釈迦如来坐像台座光背・定印阿弥陀如来坐像台座光背、孔雀明王像、伽藍不動堂不動明王坐像光背台座等の修復が完了す。
    • 12月21日付
      奥の院護摩堂不動明王坐像台座修復される。
      台座墨書銘有:「御本尊往昔ハ常ノ石座也、古ル御座之裏書ノ写、奉安置奥院護摩所御本尊瑟々座正中元甲子(一三二四)十二月二十八日、大願主高野山実相院隆圓住真如房、大仏師法印、彩色法橋忍圓、澄誓正圓、従正中元、至寛政四壬子迄四百六十五年ニ当、右ノ実相院ヲ尋エ今ノ小田原石蔵院ノ事」「奉再造立奥院護摩堂御本尊瑟々座、寛政四壬子九月十二日、施主、当山無量寿院□遍照光院現住昶恵、奥院護摩所末葉喬秀」光背裏面朱漆銘有:「明和五子八月十三日、再興不動院秀雄、ヌシ平右衛門、科五十文目」大正12年4月8日発見。修復完了。
    • 12月22日
      午前4時頃大円院出火し全焼す。表門のみ残る。
  • 1924年 大正13年
    • 7月27日〜8月16日
      文化財綜合調査が行われる。
    • 7月28日
      この時期、小宝蔵(宝庫)の湿度が高く、困惑。その旨、建築技師大江新太郎に相談。
  • 1925年 大正14年
    • この年、九度山から神谷間にかけて、高野登山自動車会社が登山バスの運行を開始した。
    • 6月
      この時期、正智院赤不動明王坐像が修理された。
    • 6月13日〜16日
      奈良美術院新納忠之助来館し仏像調査を行う。
    • 6月18日
      模写阿弥陀聖衆来迎図、有志八幡講十八箇院の開眼供養が行われる。
    • 7月
      「高野町石」が和歌山県の史跡として指定される。
      「町石二百十七基、里石四基アり、方一尺余、高サ凡ソ一丈、上部ハ五輪形ヲナシ下部ハ方行ニテ梵字並ニ施主ノ氏名年月日ヲ彫刻ス」
    • 7月
      「崇源夫人五輪石塔」が和歌山県の史跡として指定される。
      「高野山奥の院五五三番地。当山無数ノ石塔中最大ナル故一番塔ト称ス。寛文四年慈母追善ノタメ駿河大納言忠長の造立スルモノナリ」
    • 7月
      「仏号板碑」が和歌山県の史跡として指定される。
      「奥院五五三番地、全高六尺二寸。興国五年阿波国府住人沙弥覚仏ガ自身順次往生並ニ亡妻亡息追善ノタメ造立スタルモノナリ」
    • 7月
      「豊臣家墓所」が和歌山県の史跡として指定される。
      「奥院五五三番地、豊太閤応其上人ヲ信用シテ大ニ高野山堂塔を興隆シ一族の墓所ヲ此ニ造築シタリ、元は一千余坪アリシガ今ハ百余坪ニ過ギズ」
    • 7月
      「禅尼上智碑」が和歌山県の史跡として指定される。
      「奥院五四八番地、天寿元年ノ造立。方六寸高サ三尺ノ角柱ニテ頂部欠損セリ」
    • 7月
      「法明上人墓」が和歌山県の史跡として指定される。
      「奥院五五三番地、法明上人ハ融通念仏宗中興ノ祖ニシテ後醍醐天皇ノ叡信深ク墓石ハ正平四年ノ造立ニテ高サ五尺ノ無縫塔ナリ」
    • 7月
      「高麗陣敵味方戦死者供養塔」が和歌山県の史跡として指定される。
      「奥院五五三番地ノ内、征韓役ノ戦死者ヲ弔フタメ敵味方倶ニ一視同仁ノ博愛主義ヲ以テ島津義弘父子ノ建立セシモノ、石造ノ位牌形ニテ総高一丈二尺三寸」
    • 7月
      「大津籠城戦死者追弔碑」が和歌山県の史跡として指定される。
      「奥院五四八番地内、関ヶ原ノ役ニ京極高次ガ戦死セシ近臣二十二人ヲ追弔スルタメ建ツル所ノ石碑ニシテ剣先札形ヲナシ高サ四尺六寸台石ハ亡失セリ」
    • 7月
      「浅野長矩供養碑」が和歌山県の史跡として指定される。
      「奥院五八四番地ノ内元禄十四年大石良雄ガ主君追福ノタメ建立シタルモノ石造位牌形。総高六尺、最近有志胥謀リ良雄以下四十七士追福ノ石塔一基ヲ傍ニ建ツ」
    • 7月
      「高野ぐみ」が和歌山県の天然記念物に指定される。
      「高野町大字相ノ浦字松尾十二番三十二号、高野ぐみハ牧野博士種々研究ノ結果、大正十二年新種ト確定セシ珍奇植物ナルガ、当樹ハ根回リ四尺、樹高二間半ぐみトシテハ希有ノ老大樹ナリ」
    • 7月
      「とがさはら」が和歌山県の天然記念物に指定される。
      「高野町大字相ノ浦字堂垣内三三五番村社丹生神社境内、幹周地上五尺ノ処ニテ一丈二尺樹高約一七間、枝張リ約七間、樹勢未ダ著シキ衰弱ヲ認メズ、実ニ希有ノ老大樹ナリ」
    • 7月30日
      高野鉄道が橋本から高野下(椎出)まで開通す。
    • 8月10日〜
      荻野仲三郎氏宝物調査のため来山。
    • 8月25日付
      重文・工芸銅鐘一口金剛三昧院、重文・工芸銅鐘(弘安三年銘)一口金剛峯寺、重文・彫刻阿弥陀如来及両脇侍立像三躯光台院、重文・彫刻四天王立像四躯金剛峯寺、重文・彫刻四天王立像快慶作四躯金剛峯寺、重文・彫刻十一面観音立像一躯宝亀院、重文・彫刻毘沙門天立像一躯正智院、重文・彫刻不動明王坐像一躯正智院、重文・彫刻不動明王立像(合体不動)一躯金剛峯寺が指定される。
    • 9月19日
      榎本久蔵表具師登山。国宝修理に着手す。
    • 9月28日付
      大日如来画像(金剛峯寺)、普賢延命菩薩像(正智院)が修復される。表具師榎本久蔵。大日如来画像は修理設計変更がなされ「寛元三年」の墨書銘は外し別置きとする。大正14年10月15日に完成。
    • 10月4日
      高屋肖哲画伯来館し、阿弥陀聖衆来迎図模写の補筆を行う。
    • 10月23日
      奥の院経蔵屋根修理す。
  • 1926年 大正15年
    • 4月15日付
      重文・工芸銅鐘(永正元年銘)一口金剛峯寺が指定される。
    • 4月19日付
      重文・建造物金剛峯寺徳川家霊台(家康霊屋・秀忠霊屋、付属厨子各一基)二棟金剛峯寺、重文・工芸仏餉鉢一口金剛峯寺、重文・工芸蒔絵螺鈿筥(三衣入)附紙本墨書三衣寄進状一合金剛峯寺、重文・書跡増壱阿含経巻第三十二、一巻金剛峯寺、重文・書跡雑阿含経巻第三十九一巻金剛峯寺、重文・書跡町石建立供養願文一巻金剛峯寺、重文・書跡般若心経霊元天皇宸翰一巻金剛峯寺、国宝・書跡聾瞽指帰二巻金剛峯寺が指定される。
    • 4月28日〜6月17日・18日
      国宝・仏涅槃図(金剛峯寺)及当麻曼荼羅図(清浄心院)、紅頗梨色阿弥陀如来像、八字文殊曼荼羅図(正智院)修復のため榎本久蔵師(修理技術者)に依頼。
    • 5月23日
      武田五一来館。
    • 5月25日
      増一阿含経、聾瞽指帰修理のため榎本久蔵表具師に依頼。
    • 6月
      応徳仏涅槃図(金剛峯寺)修復。
      墨書銘:「国宝仏涅槃図、大正十五年六月依古社寺保存法修理畢、表具師榎本久蔵、高野山金剛峯寺」。
    • 6月2日
      高野山大学開校祝賀会。
      大師教会本部にて祝賀会。霊宝館境内にて園遊会開催
    • 6月11日〜12月9日
      国宝(旧)紅頗梨阿弥陀、八字文殊菩薩像(正智院)、修復のため榎本久蔵表具師に依頼。
    • 6月18日
      五悔文修復完了。
    • 7月21日
      御影堂宝庫より天野舞楽に関する資料を抽出し調査。同じく御影堂より仏画13点、古写経7巻収蔵。
    • 8月1日〜10月7日
      血曼荼羅図二幅を勧学院に運び榎本久蔵に修理依頼。軸木を放したる処、書き付け、頭髪など納入品発見。銘:「従五位上行太神□□山井出羽守景廣、山城國愛宕郡京五條御影堂前住。表具師、飯田次郎右衛門尉義重(法名宗清四十六才)、子同平太夫尉重信。同、田中八兵衛尉家紙。同手代、中島喜兵衛尉重久。同、服部次郎兵衛尉清正、同七之丞。同、京御幸町通松屋町、絵本、梶川勘兵衛尉静房(法名栄久三十九才)、子、勘之丞。同手代、小田久五郎尉重正、同次郎助。寛文八歳申六月吉日。」金剛界ノ軸中ヨリ顕ル。軸木表:「紀州伊都郡九度山住指物屋久兵衛作」裏:「夏月道西・真月妙法・・・・寛文八年暦五月吉日敬白」、紙包:表「為清心」裏「香林宗香信士・・・・」中略「寛文八年申六月吉日、服部次郎兵衛清心」云々。胎蔵界ノ軸中ヨリ顕ル。「此両界曼荼羅自加先年修復以降既逮七十余稔然間□両自侵尊秋□亦懐仏像依蔵前自性院之院主権少僧都宥雅勤修複(ママ)志招く従和州南都於糊黏之細工三人当時名人花夷□隠者乎希護持願主因此功力現世保法躰健猛延算当生到菩提常住楽邦乃至法(歟)界利益□□、西院自性院恵俊房宥雅(花押)。慶長三年(一五九八)戊戌五月二十一日」。
    • 8月15日〜25日
      荻野仲三郎が主査となって、山内39ヶ寺で370点の綜合調査が行われた。調査員藤懸静也、丸尾彰三郎、脇本。
    • 8月15日〜21日
      第17回特別拝観日開催。
    • 8月16日
      綜合調査霊宝館より調査開始。
    • 8月17日
      綜合調査宝寿院その他。
    • 8月18日
      綜合調査清浄心院その他。
    • 8月23日
      古面修理のため中村直彦師(修理技術者)に依頼。
    • 9月9日
      スゥエーデン皇太子登山により高野一般村民チフスの予防注射を行う。
    • 9月20日
      血曼荼羅図軸中に納めるべき毛髪等、榎本久蔵表具師に渡す。
    • 10月2日
      スゥエーデン皇太子(グスタフ・アドルフ・オスカー・フレデリック・ウイリアム)、同妃殿下(ルウイズ)午後2時30分来館。一時間拝観の上、境内に高野槇を記念植樹。
    • 12月9日付
      九品曼荼羅図(清浄心院)修復竣工届提出。

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