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高野山 霊宝館(れいほうかん)

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高野山と文化財

高野山大水害記録(紀州大水害)

昭和28年(1953年)7月に降った大雨は高野山をはじめ、近隣にも甚大な被害をもたらしました。このときの水害は後に「紀州大水害」と呼ばれるようになり、紀州一帯で千人以上の方々が亡くなられたと言われています。

下の写真は高野山内での水量の様子を写している貴重なものですが、山上でこれだけの水量だと下流地域では想像を絶する状態だったと思われます。隣の花園村では全村壊滅状態に陥るといった大災害となりました。

当時の霊宝館日誌から、その時の状況を読みとることができますので、以下にご紹介いたします。

霊宝館日誌より

  • 昭和28年7月18日
    天候強雨。終日に及ぶ。出勤三名前夜半より強雨続き、今暁より別して猛烈なる降雨となり、四時前後に至り浸水家屋あり。殊に東西小田原蓮華谷は著しく、道路は川と化し廊下浸水家屋続出し、サイレンの警戒信号鳴りひびきて物凄き有様なり。このため高野電車停止、電灯は消え、高野町内右往左往する人員出動混乱を極めたり。従って本日は当館も閉館状態にて過ごしたり。拝観者としては午後四時に至り南河内の千代田学園七十名優待ありしのみ。
  • 7月20日
    南東の風強風。出勤三名。時々俄に大雨にて拝観人の見込み立たざるに依り、開館せずして詰め所にて座勤に過ごす。本日拝観者一名もなし。
  • 7月21日
    東北の風雨。付近花園村、野迫川村等災害の為、負傷者の救助、食料物資の送付、現場救助作業等、右往左往する各種団体等、混雑の中に◆れたり。
  • 7月22日
    南西の風曇天時々小雨。出勤三名。本日も天候不良且つ交通機関充分ならざる為、登山者なく閑散なるため、館を閉館のまま、勤務につき、過日来よりの強雨により庭園荒れたる箇所に対し応急修繕を加え労働勤務をなす。
  • 7月23日
    南西の風曇天時々晴。出勤三名。午前八時より勤務につきしが、水害後の高野山は避難民の輸送や負傷者の治療の為、各種医務機関活動、本県並びに奈良県の地方事務所の救援事務、高野山消防団の活動、被害地並びに之等関係者の見舞い慰問等交錯して其の混雑さ言語に絶し、随って登山参詣客は皆無の状態にて、吾等職員出勤とは名のみにて思い思いに除草又は荒地ヶ所の修繕などに日を過ごす

記録写真

(以下の写真は町家の方から提供を受けました。)

水害の風景 水害の風景2
山内の道路が川のようになっています。想像を絶するような水量です。

水害の風景3 水害の風景4
地面の白い部分はすべて水です。

水がひきはじめた頃の写真 水がひきはじめた頃の写真2
ようやく水が引きはじめた頃かと思われます。
写真左:伽藍前の道路 写真右:大門付近と思われます。

寺院庭先写真 壊滅状態の写真
写真左:寺院(三宝院前とも)の庭先が川のようになっています。
写真右:近隣の集落でしょうか。壊滅状態になっているのがわかります。

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