トップページ > 高野山と文化財 > 文化財年表 > 昭和1年〜昭和29年 > 金堂焼失諸仏
昭和元年に焼失した金堂内陣の須弥壇中央には、本尊を祀るための巨大な厨子(ずし)が設けられていました。萬延元年(1860)金堂再建時の仕様記録(御影堂文書)によりますと、この厨子だけに一千二百両が投じられたとあります。
厨子の中には秘仏であった本尊がまつられていましたが、金堂と共に焼失してしまいました。その他、下の写真の諸尊像もすべて焼失しています。
以下、焼失金堂を「旧金堂」と記すことにします。
旧金堂の正面の厨子内には、一説に一丈六尺(約4.8mの半分)の阿閦如来坐像が祀られていたと伝えられています。しかし『高野御幸記』(天治元年)などには、本尊が「薬師如来」であると記していることから、本尊名称に二説があることがわかります。また『高野春秋巻第十八』には、本尊は薬師如来であるとしながらも尊容は阿閦仏であるともいっており、こうしたことから、阿しゅく・薬師同体説も提唱された時期もあったようです。
では現在はといいますと、金堂本尊は「阿閦如来」としている場合が多いように見受けられます。
こうした尊名が明確ではなかった一つの理由として、本尊は完全なる秘仏として扱われたためでもあったのでしょう。明治時代から再三文化財調査が高野山にも入ったのですが、ついに扉が開けられることはありませんでした。未調査のまま本尊ともに焼失したのですから、当然写真なども無く、今となっては尊容を知るすべもありません。
大正時代の中頃、点検と称して一度開扉し本尊を拝したことがあるとの話が残っています。しかし、どうしたことか、目をこらしても尊容がよく見えなかったのだそうです。
この話には後日談がありまして、その時、本尊を拝したのは三名の重役方であったそうですが、直後に、その内の二名までが相次いで遷化されたとのことです。この話しから種々の憶測が飛び交い、昭和元年に金堂が焼失したのもこの時の開扉が原因だと、まことしやかにささやかれたこともありました。
いずれにしても、どのような姿の本尊であったかなど、本尊を拝した方達からは語られることはなかったようです。た。
本尊に対して脇侍仏の方は、調査の際などに写真に納められていました。本尊を中心に、正面向かって右から金剛薩埵坐像・不動明王坐像・普賢延命菩薩坐像、左に金剛王菩薩坐像・降三世明王立像・虚空蔵菩薩坐像が安置されていました。
これらの諸尊像の配置が当初から弘法大師の構想によるものかは不明とされていまして、金剛薩埵・金剛王菩薩が金剛界曼荼羅における阿閦如来の四親近(ししんごん)菩薩の内の二菩薩であることから、従来様々な推測がなされてきました。例えば、金剛界四親近菩薩の金剛愛・金剛喜の二菩薩像焼失説や四親近菩薩の代表としての二菩薩像造立説などが挙げられるわけです。
また他の二菩薩二明王像についても、その作風や寸法などの違いから金剛薩埵・王菩薩像と同時期に像立されたことに対して疑問視する見解が有力で、後世に他の御堂から移された客仏説なども考えられているのです。
こうした諸尊配置は、遅くても平安時代の終わり頃には確立していたことが各種記録からは判明しますので、配置の明確な意味合いは不明ながらも、比較的早い時期から採り入れられていたことがわかります。
旧金堂諸尊像の像高について、記録されている資料も少なくありません。ただし、仏像の場合の採寸は台座、光背を入れての寸法なのか、それとも仏像本体のみの像高なのか、不明な場合も多いことが挙げられます。
従来の諸記録(下表)では、四菩薩像を八尺五寸とし、両明王像を七尺二寸と記している場合が多く見受けられます。八尺五寸は約2メートル80センチですので、本体の像高だとすると、とんでもなく大きな仏像群であることになります。こうした記録寸法と実際の諸尊との寸法が一致しなくなり、過去には当初像否定説や客仏説、周尺換算説、台座合算説など種々の憶測がなされました。
しかし明治21年(1888)に実施された高野山の調査記録である『高野山金剛峯寺什器帳』には、こうした諸尊すべてが台座を含む寸法であることが明記されていまして、八尺五寸や七尺二寸は台座、光背を含む総高であることがわかりました。
これらの金堂諸仏が悉く焼失したことは、かえすがえすも残念な出来事でした。特に秘仏であった本尊像は、金堂創建当初の平安時代初期に造立された坐像であったといわれていただけに、ひとしおその感を強くします。
焼失した金堂諸像を知るには、ここでご紹介した脇侍像の写真のみが、かろうじて伝わっているといった状態です。写真からではありますが、平安時代の趣をつたえた諸尊であったことが十分に伝わってきます。特に金剛サッタ、金剛王両菩薩像は、9世紀前半の造立になるとも言われています。
八尺五寸は約2.8m、七尺二寸は約2.18m、三尺は約0.909m、三尺八寸五分は約1.16m、一尺四寸八分は約0.44m | ||||||
出典\尊名 | 金剛サッタ坐像 | 金剛王菩薩坐像 | 普賢延命坐像 | 虚空蔵菩薩坐像 | 不動明王坐像 | 降三世明王立像 |
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金剛峯寺 建立修行縁起 伝仁海撰 (951〜1046) |
八尺五寸 | 八尺五寸 | 八尺五寸 | 八尺五寸 | 七尺二寸 | (無記) |
金剛峯寺 巡礼次第 伝明恵撰 (1173〜1232) |
八尺五寸坐像 | 八尺五寸坐像 | 八尺五寸坐像 | 八尺五寸立像 御頭御作 |
(寸法無記) 御頭御作 |
(寸法無記) 御頭御作 |
高野山巡礼記 弘長3年(1263) |
八尺五寸坐像 大師御作 |
八尺五寸坐像 大師御作 |
八尺五寸立像 二十臂 御頂大師御作 |
八尺五寸立像 御頂許御作 |
七尺二寸坐像 御頂許御作 |
七尺二寸坐像 御頂許御作 |
金剛峯寺 日記私集之 (室町時代の写本) |
八尺五寸坐像 御作皆金色 |
八尺五寸坐像 御作皆金色 |
八尺五寸立像 二十臂 御頭御作皆金色 |
八尺五寸立像 御頭御作皆金色 |
七尺二寸坐像 御頭御作 |
七尺二寸坐像 御頭御作 |
金剛峯寺 堂塔建立由来書 寛永7年(1630) |
八尺五寸像 一体 |
八尺五寸坐像 一体 |
八尺五寸坐像 二十臂 一躯 |
八尺五寸坐像 一躯 |
七尺二寸坐像 一体 |
七尺二寸立像 一躯 |
高野春秋巻第十八 (享保年間1716〜35) |
居長三尺 | 居長三尺 | 居長二尺二寸五分 | 居長二尺二寸五分 | 居長二尺六寸 | 立長五尺 |
紀伊続風土記 巻五十二 天保10年(1839)完成 |
長八尺五寸 肉色坐像 弘法大師真作 |
長八尺五寸 肉色坐像 弘法大師真作 |
長八尺五寸 肉色坐像 御首は大師作 |
長八尺五寸 肉色坐像 御首は大師作 |
七尺二寸坐像 青黒色坐像 御首は大師作 |
七尺二寸立像 黒色 御首は大師作 |
高野山 金剛峯寺什器帳 明治21年(1881) |
台座共八尺五寸 弘法大師真作 |
台座共八尺五寸 弘法大師真作 |
台座共八尺五寸 弘法大師真作 |
八尺五寸 弘法大師真作 |
(無記) | (無記) |
野山霊宝集 明治42年(1909)刊 |
三尺五寸 | 三尺五寸 | 二尺五寸 | 二尺五寸 | 二尺六寸 | 二尺八寸 |
国宝全集十七 大正14年(1925)刊 |
高三尺八寸五分 自頂上至顎 一尺四寸八分 |
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