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高野山 霊宝館(れいほうかん)

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高野山と文化財

金堂焼失記録(昭和元年)

旧金堂(昭和元年焼失)

焼失前の金堂から燃えている金堂までの写真金堂はもと講堂と称して、伽藍の中心、高野山の本堂として弘仁10年(819)より造営され、承和5年(838)に完成されたと伝えられています。その後、焼失、再建を繰り返しつつ現在に至っています。

右の写真は昭和元年焼失以前の金堂の姿です。萬延元年(1860)に再建されたもので、二層楼殿からなり、堂瓦葺、梁行十二間二尺五寸、堂間七間という規模で、特筆されるのは、その木材の大半を良質のケヤキ系材料を使用していたことでした。

萬延元年の再建よりわずか66年後の昭和元年(1926)12月26日未明、金堂内部からの失火により、創建当初像と思われる本尊、諸仏と共に焼失してしまったのです。

 火災の原因(推測)

焼失当時の調査では、その火災原因を明確に特定することはできませんでした。しかし、火災の要因となるものは、おおよそ次のような理由であったことが推測されました。

高野山の冬期は殊に寒気が厳しいので、金堂内部での火鉢の持込みが黙認されていました。

当時の堂内には油燈明が灯されていましたので、その都度、油を補給しなければなりません。ところが厳寒ともなりますと、この油が氷結して使い物になりませんので、ある程度、油の温度を上げてやる必要があります。

特に油が氷結するのが早朝ですので、この油缶を火鉢の傍らか、あるいは上の方に置いたまま、その日の夕方、担当者が帰宅してしまった可能性がありました。これが夜半に及ぶ頃、何らかの動機で缶が傾いて油が火の上に洩れ落ちる様になり、こうした大事に及んだものと推測されました。

では初期消火はできなかったのかといいますと、当時の金堂も夕刻になると外扉が閉鎖されますから、外側を廻る夜警も気が付かず、容易に発見も出来なかったようです。

罹災の建物

金堂炎上に伴い、西南に位置した六角経蔵(六角六面 二層輪転式 明治十七年建立)、孔雀堂(四間半四面 単層作り 安政年間建立)、納経所 (茶所ともいう 明治年間建立)などが類焼しました。

こうした諸堂への延焼までに時間があったのでしょう。六角経蔵の本尊宝冠釈迦像や孔雀堂本尊快慶作孔雀明王像などは、からくも持ち出され無事だったのです。

火災の時刻

焼きがれた三鈷松、鎮火までの写真人の居なかった広大な金堂内部から発火したもので、しかも外扉が閉鎖されており、夜警の者すら気の付かなかった程ですから、出火の時刻を特定するのは困難でした。

状況から推測すると、昭和元年12月26日、午前1時頃、金堂下層の一隅より燻り出したものとされました。

午前6時、金堂より火が出ているのを発見し、直ちに警報を発したのですが、時既に遅く、火は下層の内部に充満していたといい、閉鎖した扉のすき間から盛んに煙りを吹き出していました。

午前7時、火は上層に達し、屋根に燃え移り、銅瓦は氷がとけるように溶解して流れ落ちたそうです。

午前9時、ほぼ燃やし尽くした頃、ようやく下火に向い、午前11時、猛火もほぼ鎮まり、燃え残りの分のみが燻っていました。

午後2時、完全鎮火しました。

消火の状況

午前6時 金堂の出火を発見すると同時に、時を移さずサイレンは鳴り響き、寺々の梵鐘は警鐘を乱打して一斉に急を報じたといいます。

その後、直ちに消防団、在郷軍人団、青年会、婦人会、学生隊の諸団体を始め、一山の僧俗男女は直ちに出動し、当時積っていた雪の中を消火に、延焼の防火に、仏像仏具の避難搬出にと努力したといいます。

午前8時より9時の間には、隣接町村より消防団の応援隊も続々到着して参加し、一時は戦場さながらの光景を呈したと記録されています(動員の総数は千名にも達したともいわれています)。

消火できなかった理由

  1. 出火発見が遅かったこと。
  2. 厳寒期であったため用水が凍っていたこと。
  3. 広大なる建物の燃焼であるため、熱気が強く近寄るにも相当困難であったこと。
  4. 銅瓦葺の屋根であったため、消火水の効力が発揮できなかったこと。
  5. 装備の消防器具も充分とはいい得なかったこと。

当時の消火器具は次の通りでした。

  • 80馬力ガソリンポンプ1台
  • 35馬力ガソリンポンプ1台
  • 60馬力ガソリンポンプ1台

記録報告書には以上のような理由を挙げています。


こぼれ話・・・

大正時代に高野山霊宝館の主事であった井村という人がいました。大正末期にはその役を退いておられたのですが、焼失以前の金堂のことを随分と気にかけておられたようなのです。もし金堂に火災が発生し焼失すれば、二度と同じ建物をつくることができないので、火の始末など重々に注意をするべく大正15年4月に進言されていました。なんと、井村氏が注意喚起を促した八ヶ月後に金堂は焼失したことになります。

こうした記録がありましたので、ご紹介したいと思います。

当山金堂の天下の偉観なることは今更弁を要せず、若し万々一再建を要する場合あるときは、仮令万金を積むとも不可能なり、其理由の第一は斯かる木材は復◆天下に有ること無ければなり、故に最も大切に保存せざるべからざること勿論なり。保存の要件は第一火の用心に在ること論を俟たず、先年参詣人に蝋燭を売り燈明を勧めしことあり。以ての外の不用心なりと感じ、時の当局に建言し聴容せられて早速之を廃せられたり。尚は進んで監視を置き保護を厳重にせられんことを窃かに希望せる折柄、今回金堂開放の事あり。参詣人には便利なるも一種の金堂虐待と視らるべく、無制限に入堂せしむるときは、自然尊敬心を滅却し、汚損を生じ易かるべく顰感に堪へざるに、また蝋燭を売り献灯を勧めつつあり。僅少の収入を目的として斯かる危険を敢てせらるるは其意を解するに苦むなり。一度大事に至らんことを想えば、慄然肌に粟をを生するを禁じ得ず。仰ぎ願はくは先ず此火を扱ふことを禁じられ度切望の至りに堪へず、敢て微衷を吐露し鄙言を呈し候。(大正十五年四月一日)

金堂に於て燈明を勧むることの危険なるを過日建言致し候処、猶黙すべからさるものあり。左に鄙言を陳じ候。金堂開放せられたる為め、中なる仏像、仏具、絵画、彫刻、乃至装飾等一切の物体は直接風塵火気に曝らされ、殊に雨天曇天の日湿気に晒らさるる為め、汚損は勿論朽ち損褪色を速かならしめ、燦爛たる金碧の荘厳も光りを失ふべく、金堂保存上不利◆より甚しきはなし。是亦金堂虐待の甚しきものと存候。適当の御処置あらんことを伏して懇願不堪候。(大正十五年四月十二日)

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