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高野山 霊宝館(れいほうかん)

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高野山と文化財

不動堂Q&A

Q 国宝・不動堂はもともと違う場所にあった?

不動堂は、本来、一心院谷に建っていたのですが、明治41年(1908年)に解体修理を受けて、現在の伽藍の地に移築されました。

一心院谷とは、高野山駅からバスに乗って山内に向かうと、まず女人堂がありますが、その女人堂を過ぎて坂を下ると右手に「金輪塔」が見えてきます。その付近が一心院谷です。この不動堂の内部には、不動明王坐像と運慶作八大童子像が安置されていました。

No. 1の写真は江戸時代の絵図ですが、そこには、一心院谷に建っていた頃の不動堂の状況が描かれています。不動堂の手前に描かれているのは、「心字の池」と呼ばれる小さな池で、形は変わってしまっていますが、現在も残っています。

高野山寺中絵図 現在の「心字の池」の写真
写真左:No.1 高野山寺中絵図 一心院谷不動堂の手前の池は「心字の池」です
写真右:No.2 現在の「心字の池」

モノクロームの写真No.3は、一心院谷に不動堂が建っていた頃のものですので、明治41年以前の写真ということがわかります。

不動堂の正面には現在のように縁側が無いことに気付きます。この縁側は元々あったようなのですが、一時期無くなって明治の修理の際に復元されたようです。また写真に写っている塔は、金輪塔です。現在この場所は公園となっています。

No.3の写真と同じようにNo.4は「金輪塔」を正面にして撮りました。No.3の写真で、左端に写っている柵(サク)は「心字の池」のものです。このことから、本来、不動堂の建っていた位置が、現在の道路の上付近であることがわかります。

明治41年以前の不動堂の写真 金輪塔の写真
写真左:No.3 明治41年以前の不動堂の状況(手前右)
写真右:No.4 現在の心字池から金輪塔

Q 不動堂ってホントに不動堂?

不動堂が不動堂らしい建物か?、ということにもなりますが、不動明王をおまつりするお堂では、護摩が焚かれることが通常です。護摩には蘇油(ソユ)といって植物油を火に投じますので、どうしても本尊はじめ、お堂も油っぽくなり煤も付着します。けれども不動堂に関しては、堂内はもちろん白木のままの綺麗な状態ですし、もともとまつられていた不動・八大童子像とも、彩色がよく残っていて、とても長期間護摩が焚かれたようには思えません。

またその建物様式も、優美な住宅風のたたずまいを見せるもので、堂内正面には、通常、阿弥陀来迎図などが描かれるべき「来迎壁」と呼ばれる板壁があり、さらに左右に脇間を設けるなど、確かに不動堂としては別種の趣を感じさせます。このようなことから、不動堂は、本来阿弥陀堂形式のお堂ではないかとの考えもできるわけです。

不動堂の歴史を知るには、『五坊寂静院文書』が参考になります。そこには、一心院の「本堂」には不動像と八大童子像が安置され、また「一堂」には阿弥陀三尊と両界曼荼羅がまつられていたことが記されています。 このことは、今現在は不動堂と呼んでいるけれど、本来、一心院の本堂であったことを意味していることになります。そこで不動堂は、「もと一心院の本堂であった」と決定したいところなんですが、建物様式からしても、「本堂」とするには、どうでしょうか。

そこで、もう一ひねりして、『五坊寂静院文書』に出てくる内容をみて見ますと、一心院には「一堂」というのもありました。しかもそこには阿弥陀三尊像をまつっているので、「阿弥陀堂」といってもおかしくないわけです。仮に一心院の「本堂」が何かの理由で無くなったか、他に移されたとすると、この「一堂」に「本堂」の本尊である八大童子像などを移したとすると、こうした阿弥陀堂の型式のお堂に不動・八大童子像がまつられることとなり、後に「不動堂」と呼ばれるようになった、と極めて納得のいく話にはなります。

不動堂外観写真 五坊寂静院文書の写真
写真左:No.5 不動堂 写真右:No.6 不動堂内部

また、平成7年から行われた不動堂解体修理で、一部の部材に「一心院」と記された墨書も見つかりました(写真No.9)。これで不動堂が一心院と関係する建物であった可能性は、さらに高くなったわけです。しかし、残念ながら決めてとなる「本堂」「一堂(阿弥陀堂)」等の名称は出てこなかったようです。

不動堂内部須弥壇写真 不動堂内部の写真 部材に「一心院」と記された墨書の写真
写真左:No.7 不動堂内部須弥壇
写真中:No.8 延応元年(1239年)2月8日付『五坊寂静院文書』「太政官蝶」
写真右:No.9 建物の部材に「一心院」と・・

もうひとつの疑問は、堂内の正面の壇上に大きな厨子(ずし)が納められていた形跡が残っていることです。写真(No.10)でも分かると思いますが、白木の来迎壁面に等間隔で縦に2本黒い筋が付いています。この位置に厨子が置かれていました。

本来安置されていた不動明王像の厨子としてはやや狭く、不動・八大童子像を安置する際にこの厨子を取り外した可能性も考えられます。そうすると、この本来あった厨子の中には阿弥陀三尊像がまつられていた可能性もあるわけです。ちなみに平成の解体修理で、この厨子は新調され、壇上に納められました(写真No.11)。

壁面の写真 厨子の写真
写真左:No.10 厨子の形跡の残る来迎壁面
写真右:No.11 新調された厨子

ところで、一心院という寺院は、平安から鎌倉時代にかけて朝廷や幕府などとも親交のあった、行勝上人によって創建されたと伝えられています。しかし、寺院自体、江戸時代頃には、すでに衰退してしまったようで、現在、寺院としては存在しませんが、しかし、「一心院口・一心院谷」という地名としてのこっていますので、当時は相当有力な寺院であったことが偲ばれます。

高野山側の史料によりますと、不動堂は鳥羽天皇の皇女八條女院によって一心院のお堂として建てられたとなっています。女院の意向が建物の形式に反映された、限りなく阿弥陀堂に近い不動堂であった可能性も捨て切れないのも事実です。

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