2002年9月26日、「伝教大師最澄書状案」(金剛峯寺)が最澄の直筆であるとの新聞報道がありました。
これは細貝宗広・国士館大教授の研究で、高野山親王院発行の『堯榮文庫研究紀要第三号』(2002年9月発行)に「久隔帖につづく最澄自筆消息出現」と題して発表されたことによります。その論功は詳細を究めたもので、一字一画に至るまで筆致を比較研究され、最澄の自筆消息であることを結論付けられたものです。その研究には全く以て敬意を表するものであります。
さて、そのことで最澄の直筆であるかどうかの問い合わせが当館に沢山寄せられました。そこで当館としては、直筆であるかどうかの1つの回答を提示させて頂きました。結論的には、現時点では案文(写)であるということから脱しきれないと言うことです。確かに、筆跡も良く似ており、本人でないと書けないと言われるほどの癖までを表現しているのかもしれません。さらに文章の内容も正確で、語句にも誤りが無いと思われます。しかし自筆であるという墨と筆の動きというものや、全体からみた字配りなどを問題にした場合、直筆と断定するだけの説得力がないのではないかと言うことで、当館では平安時代中期頃に写されたものであろうといたしました。
天台宗を開いた最澄(767〜822年)の手紙の模写とされていた書が実は最澄の自筆だったことが空海の書などの研究家、細貝宗広・国士館大教授の研究でこのほど分かった。手紙は和歌山県高野町の高野山金剛峯寺が所蔵しており、「国宝級の名筆」という。模写とされていたのは「伝教大師最澄書状案」812年に最澄が次の儀式のために当時参議の藤原冬嗣に儀式に用いる器具の助成を要請した手紙。
天台宗を開いた最澄(767年〜822年)の手紙の模写とされていた書が、実は最澄の自筆だったことが空海の書などの研究家、細貝宗広・国士館大教授の研究でこのほど分かった。手紙は和歌山県高野町の高野山金剛峯寺が所蔵しており、「国宝級の名筆」という。模写とされていたのは「伝教大師最澄書状案」(縦29.7センチ、横51.5センチ)で、812年に最澄が真言宗の開祖・空海から潅頂(かんじょう)という仏教の儀式を受けた後、次の儀式のために当時参議だった藤原冬嗣に儀式に用いる器具などの助成を要請した手紙。金剛峯寺にある書状案の解説などには「最澄の自筆を極めて忠実に写した平安時代中期の模本」と記されていた。
細貝教授は解説の記述に疑問を抱き、書状案と最澄自筆の「久隔帖」の筆跡を一字一字、約半年かけて丹念に比較した。その結果、書状案には、最澄独特の字形や運筆のほか、本人しか書けない書法上の特徴があり、自筆に間違いないとの結論に達したという。細貝教授は「本来、国宝に指定されるべきもの」と話している。
【最澄の自筆と分かった高野山金剛峯寺所蔵の「伝教大師最澄書状案」】
天台宗の開祖伝教大師最澄(766年〜822年)の自筆書状の平安時代の案文(写)である。内容は弘仁3年(812年)11月19日に最澄がその後援者であった左衛士督(左衛門藤原冬嗣)に宛てたもので、来月(12月)13日に高雄に隠居している空海から伝法灌頂を受けるることとなつたので、その費用を援助して欲しいと願っている。
最澄と空海は共に求法のため入唐したが、最澄は密教の受学が不充分であったため、帰国後、空海から密教を学び、弘仁3年12月14、15日に高雄山で伝法灌頂を受けた。
この書状は最澄が空海から仏法灌頂を受けるため、さまざまな準備を行っていたことを伝えたものである。なお、この書状の文章は『伝教大師消息』(『続群書類従』所収)のうちに収められているが、この金剛峯寺本は案文(写)とはいえ、その筆跡は最澄の自筆を極めて忠実に写していて、平安時代中期の模本として注目される。
2002年10月1日
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