金山前官様の思いで
天徳院にて 伊 藤 弘 子(75歳)
私の父は上田秀道と申します。明治の終り頃、早稲田大学を卒業してより高野山に登り、その頃高野山大中学と云われていた時分、金山前官様と一緒に先生をしておりました。北陸の真言宗のお寺の出身でごぎいます。
私の生まれたのは大正五年で、高野山で正式に結婚して子供が居るのは、本当に珍しい時代でしたので、随分皆さんに可愛がられ、天徳院のお庭でもよく遊ばせて頂いたそうです。私が北陸の蓮王寺へ帰ってから、18歳で女学校を卒業するまで、金山前官様にはあまりお目にかかったことはありませんでした。前官様が久しぶりに蓮王寺へ御出で下さるということで、母と一緒に小杉の駅までお迎えにいきました。金山前官様は、五歳の時の私を御存知だっただけなので、大きく成長したのを見て、目を丸くして驚かれたのです。昭和8年でございました。
昭和11年に父が53歳で亡くなった時、弟はまだ小さかったので、金山様の弟子である伊藤真城に蓮王寺の住職名義をもっていただく様お願い致しました。そして翌12年に不思議な御縁によって、伊藤の嫁として高野山に登ったのでごぎいます。金山前官様とはその時より弟子として、また親子として暮らすことになりました。昭和33年6月に83歳で御遷化になるまでおそばで過ごして参りました。思い出の数々は今でもありありと残っています。
21年間、高下駄をはいて奥の院へ日参なさったことや、八千枚護摩を修されたお姿は、なんだかお大師様の後姿を拝んで居るような気が致しました。いろいろなことを教えて頂き、特に悉曇は難しく、私はすぐに覚えられなくて、きびしくしかられ、明日までにこれだけ覚えなさいといつも云われておりました。
前官様は、朝二時頃から起きて勉強なさって居らっしゃいました。昼は雑用に追われるので、その時は大学図書館の研究室で過ごして居られました。また、お居間では常に硯を横に置き、半紙に字を練習なされて、白衣の袖や裾には塁の模様が出来て洗っても落ちませんでした。
前官様の生涯は質素なものでした。一番の贅沢は熱いおうどん、大根のふろふき、湯豆腐など寒さが厳しい高野山では何よりの御馳走だったのです。それに晩酌に1本お酒をつけて差し上げると、それは喜んで美味しそうに召し上がりました。
金山前官様は生涯肉食妻帯されずに過ごされましたが、私共の四人の子供を本当の孫のように可愛がって頂きました。御縁がありまして、こうした高僧の方と一緒に20年もの長い間、おそばで過ごさせて頂けましたことは、ご本尊様に感謝の念で一杯でごぎいます。
金山前官様と同じ道を歩んだ伊藤前官も、昭和54年1月に、金山前官のもとへと参りました。苦労をしながらお寺を守り、学校や事相に熱意を入れ努力なされた先住様のことを偲び乍ら、今日の幸せの大きさをしみじみと喜ばせて頂いて居るのでございます。 平成3年12月
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年 表
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年月日 | 事項 |
明治9年10月30日 | 富山県上新川郡大山村に金山忠吉の次男として出生 |
明治21年3月22日 | 大岩山(日石寺)春山一覚師の範子となり得度。僧名法龍(13歳) |
明治24年12月日7日 | 四度加行成満 |
明治25年4月29日 | 伝法灌頂。鼎龍暁大僧正より受く |
明治30年4月 | 高野山へ登山、古義真言宗大学林入学(22歳) |
明治32年7月26日 | 原心猛、密門宥範、鼎龍暁、鎌田観応、葦原寂照、土宜法龍、泉智等、龍池密雄、松永昇道、法性宥鑁、浦上隆応、和田大円、高岡隆心等の諸大徳より根本十二流及び84方の伝授を受く |
明治34年6月 | 古義真言宗大学林卒業、日石寺に帰山(26歳) |
明治34年春 | 大学林に再修学のため高野山に登る |
明治35年 | 高野山中学校教諭就任 |
明治38年10月12日 | 高野山大学教授就任 |
明治43年春 | 兵車県長楽寺住職(35歳) |
大正2年〜昭和8年 | 21年間にわたり奥の院弘法大師御廟に日参 |
大正5年9月 | 勧学会3年目出仕(41歳) |
大正8年2月6日 | 高野山天徳院住職(44歳) |
大正9年4月 | 金剛峯寺法会調査会委員 |
大正10年 | 中国・アメリカ人に真言密教を教授指導する |
大正11年 | 金剛峯寺座主土宜法龍師と同名であるため穆韶と改名 |
大正13年7月12日〜大正8月30日 | 阿波大龍寺で虚空蔵求聞持法厳修 |
大正13年11月3日 | 学修灌頂。宝寿院にて泉智等大僧正より受く(49歳) |
大正15年 | 中国仏蹟参拝(51歳) |
昭和4・15・20年 | 八千枚護摩供厳修 |
昭和5年10月2日 | 具支灌頂。勧修寺に於て和田大円大僧正より受く |
昭和6年10月15日 | 瑜伽灌頂。智積院に於て和田大円大僧正より受く |
昭和9年7月24日 | 宝寿院門主、修道院長就任 |
昭和10年8月6日 | 宮中後七日御修法定額僧となる |
昭和12年5月〜 | 日々護摩供を修す |
昭和15年12月1日 | 高野山大学長就任。大正、龍各大学との合併に反対し、高野山大学の存続をはかる(65歳) |
昭和18年10月 | 密教学研究所長就任 |
昭和19年2月22日 | 第444世寺務検校法印職昇進(69歳) |
昭和19年5月 | 太元帥御修法出仕。金剛峯寺 |
昭和20年12月24日 | 大僧正昇補 |
昭和26年11月17日 | 真別処円通律寺和上歴任 |
昭和28年2月22日 | 高野山真言宗管長、総本山金剛峯寺座主就任(78歳) |
昭和28年12月28日 | 一千座護摩成満 |
昭和29年10月29日 | 宮中菊花宴に参列 、 |
昭和31年11月20日 | 五大不調につき渡印中止 |
昭和33年6月11日 | 天徳院で遷化(83歳)。肉食妻帯せず行学兼備・持戒堅固の高徳であった |