高野山と浄土
浄土とは、仏の住する清浄な仏国土をいい、仏・菩薩にはそれぞれに浄土があると説かれる。例えば西方極楽浄土が阿弥陀如来の浄土であるというのは万人の知るところであろう。この西方浄土は、人が死後に往生したいと願う浄土教思想の極楽浄土であるが、高野山の場合は、現世、即ちこの世の浄土(弥勒浄土)が高野山であるという信仰が弘法大師入定信仰と共に芽生え、独自な展開を示してきた。もちろん浄土教思想も必然的に高野山に押し寄せ、それに伴い数多くの浄土教美術を生んできたのである。少々長くなるが、この歴史的背景を基に、もう少し詳しく探ってみることにしよう。
我が国には古来より山岳を霊場とする信仰があり、これに属する高野山が、後世、聖地あるいは浄土として捉えられるのにさほどの時間を必要としなかったことは容易に想像される。伝承ではあるが、高野山における弘法大師の次継者となった真然大徳(38)は、元慶七年(883)陽成天皇に対して「高野山は前仏の浄土、後仏の法場で、諸天日々に擁護し、星宿夜々に守護し給う。ひとたびここに歩みを運ぶものは、いかなる罪障も消滅することができる」と説いたとされている。「前仏の浄土」とは釈迦如来の浄土のことで、「後仏の法場」とは弥勒仏の説法場所のことである。この伝承は後世の作であるとする説が有力ではあるが、それはともかく、比較的早い時期(10世紀中頃)から、高野山が釈迦・弥勒の浄土であると信仰されていたことが推測される。ところが平安時代中期になると阿弥陀浄土信仰が風靡し、やがて高野山にも押し寄せることとなる。
天台僧恵心僧都源信が寛和元年(985)に著した「往生要集」は、この世をけがれた世界と厭い、いかにすれば極楽往生できるかを明確に説くことにより、それまでの浄土教を朝野に広める契機となり、極楽往生を切に欣求するならば、臨終の際、阿弥陀如来が来迎して魂を極楽浄土へと導くとする信仰は、多くの来迎系阿弥陀像を制作させる要因となった。その劈頭を飾るものとして、もとは叡山に伝わり源信筆ともいう国宝・阿弥陀聖衆来迎図が挙げられるが、実際の制作は源信の時代までは遡り得ず、平安後期頃の作となるもので、現在、有志八幡講所蔵として高野山に伝わっている。
又一方では、従来からの弥勒信仰も盛んであったが、高野山の場合は、弥勒下生信仰と弘法大師入定信仰が加上され、独自の信仰形態を示した。弘法大師は承和二年(774)三月二十一日に奥の院に於いて永遠の定に入られたが、今なお留身して衆生を救済されているという入定信仰が十世紀中頃からひろがりはじめていた。それは弥勒仏が釈迦入滅後五十六億七千万年後に下生するまで、肉身のまま入定し、弥勒仏に代わって衆生を救済するという大師自身の誓願によるものであり、加えて、大師は兜率天に住し、弥勒仏に伴って下生するということからも、弥勒仏と大師とは同体であるとする信仰が生まれ、大師が入定する高野山そのものが弥勒の浄土と信仰されたのである。これは即ち、この世に浄土を建立するという真言密教の浄土観ということができ、浄土を他に求める浄土教の浄土観とは一線を介するものといえる。
さて、これら弥勒信仰と阿弥陀信仰が高野山において隆盛を迎える契機となったことの一つが、不幸にも正暦五年(994)の大火災であった。この火災により高野山は極度に衰退するが、この復興の火を灯したのが興福寺の勧進僧祈親上人定誉(39)(958〜1047)であり、また京都山科の小野僧正仁海(951〜1046)であった。仁海は、従来から唱えられていた高野山の浄土観を鼓吹するなどにより、関白藤原道長の高野参詣を導き、これを嚆矢に院政期においても皇族・貴族の参詣が相次ぎ、高野山は経済的にも奇跡的な復興を遂げ、浄土としての高野山を天下に知らしめる結果となった。
道長は浄土しての高野山に参詣し、大師の加護により、死しては極楽往生を願い、また弥勒仏下生の時には法華会の聴講を願い、奥の院大師廟付近に法華経と理趣経を埋納したと伝える。これらは永承七年(1052)頃から仏法が滅び始めると予言された末法到来に備えて、弥勒仏出世のその時まで教典を遺すという、いわばタイムカプセル的な目的により埋経され、それ以後も皇族・貴族などにより、おびただしく埋経や納骨、納髪が行われた。このことは一般の納骨信仰や墓石建立へと繋がり、霊場としての高野山へと変化していくことになる。これら埋納遺品中、比丘尼法薬関係遺品(41〜53)が年代の確定している史料として殊に貴重である。
高野山は弘法大師入定の聖地、弥勒菩薩の浄土と信仰されたことにより、高野浄土を求め極楽往生を願う多くの念仏修行者が高野山に集まり、大念仏集団が形成された。それは後に高野聖と呼ばれる聖集団となり、全国に高野浄土を知らしめることとなる。この阿弥陀信仰の形跡は近世にまで残っており、江戸期の高野山内寺院の本尊をみると530ケ寺の内、約30%までが阿弥陀如来像で他を圧しており、この時期の状況を端的に反映している。十二世紀で現存する阿弥陀像で著名なものは、東別所阿弥陀堂本尊と伝える丈六の重文・地蔵院 阿弥陀如来坐像(新館第一室展示)があげられる。
十二世紀も末頃になると東大寺再建大勧進職で有名な俊乗坊重源が全国を勧進して巡る聖集団を結成させ、専修念仏を修行する別所が山内に設けられ、高野山の谷々からは念仏が響きわたった。また平治の乱で源義朝に殺された後白河院の寵臣藤原通憲(信西)の子で三論と密教を学んだ明遍(1142〜1224)は、蓮華谷に念仏別所を設け早くに蓮華三昧院を建立し、重文・快慶作阿弥陀如来立像(遍照光院蔵未公開)を本尊とし、絵画では蓮華三昧院国宝・阿弥陀三尊像が明遍念持仏として伝わっている。また五坊寂静院重文・阿弥陀三尊像(新館第1室展示)も鎌倉時代の作であるが、この時期の信仰所産といえる。
根来において新義真言宗を開いた覚鑁(1095〜1143)は、密教教学と阿弥陀信仰に徹した密教念仏者ともいわれ、密教の大日如来と浄土教の阿弥陀如来とは同体であるとし、さらに密厳浄土と極楽浄土とは同所と捉え融合をはかった。この思想に基づき弘法大師撰述と伝える『無量寿如来供養作法次第』の本尊「紅頗梨色阿弥陀」が密教的な阿弥陀如来として鎌倉時代より制作され始める。高野山に現存するもので著名なものは、共に重文指定になる正智院本(18)と桜池院本(19)が挙げられる。
ところで高野浄土ということで忘れてはならないのが、高野山麓の慈尊院から高野山伽藍までの百八十基、伽藍から奥の院までの三十六基建てられた町石卒塔婆群(重文)である。山外の百八十基を胎蔵曼荼羅の百八十尊に当て、山内三十六基を金剛界三十七尊(残り一尊は大師廟)に配し、まさに高野山が両部曼荼羅内院の密厳浄土であることを具現化したものであった。これは真言密教の立場から高野浄土を捉えたもので、古くは大江匡房が「法身如来密厳の浄土」と高野山を表していることから、十一世紀には密教的な浄土観も当然ながら存在していたことを物語る。この町石卒塔婆は、それ以前に建てられていた木造のものを石造に替えるべく、高野山遍照光院覚△が京都・鎌倉に勧進し、貴族・北条氏をはじめ庶民にいたるまですべての援助により弘安八年(1285)に完成したもので、その時の供養願文(40)が重文指定で金剛峯寺に伝わっている。
近世になると、従来から存在したものであるが、高野浄土観を図絵化し唱導用に使用されたと考えられる「高野蓮華曼荼羅」(26)と呼称されるものが表れ、そこには山内における各仏菩薩の浄土が明記されている。これは高野山の中心である大塔を囲む八峯を、八葉に喩えて描くもので、八峯に胎蔵曼荼羅中台八葉院の四仏、四菩薩をあてはめている。また大門から伽藍までを阿弥陀如来の極楽浄土と説き、現在の金剛峯寺前から奥の院一の橋までを普賢菩薩の浄土、一の橋から御廟橋までを観音菩薩の浄土、御廟橋から大師廟までを弥勒菩薩の浄土と次第する。さらに本絵図には、三世諸仏の浄土で、両部曼荼羅の兜率天の内院でもある高野山に一度でも参詣し、弘法大師を念ずれば、すべての罪障を消滅すると讃じており、古来からの高野浄土観を引き続き提唱するとともに、慈尊院、高野山、奥の院を蓮の葉、茎、花弁などで象徴的に表現する特異な絵図といえる。
以上、高野山の浄土観を概括した通り、山岳霊場信仰、祖師信仰、入定信仰、弥勒信仰、阿弥陀浄土信仰など時代に即したいろいろな信仰が重なり合い、この世の浄土として信仰されてきた。中でも浄土教の及ぼした影響は絶大で、経済的危機から救ったのもある意味では、浄土教念仏修行者である高野聖たちの高野浄土の鼓吹、勧進に依るところであった。その形跡は仏像絵画・彫刻のみならず、建築・文学・芸能にも少なからず影響を及ぼし現在に至っている。
本企画展では、高野浄土信仰の所産である諸々の美術品を展示し、密教の聖地高野山に伝わる浄土教美術の一端にも触れて頂ければと存じます。
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