武将と高野山展示リスト

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 高野山の奥之院には、実に多くの墓石が並び立っています。これらの中には、歴史の舞台に登場する有名な武将などの墓石も多いのが特徴といえます。一例を挙げると武田信玄・勝頼親子、上杉謙信、明智光秀、石田三成、松平秀康などの供養墓があり、また戦国時代の荒波に翻弄された女性達、駿河大納言忠長の母公(崇源院)や千姫などの墓石をも見ることができます。
 高野山において、地方の有力武士などによる墓石建立が盛んになるのは南北朝時代以降のこととされていますが、戦国時代以降、急速にその数を増やしていることが実際の墓石調査でも判明しています。奥之院などに墓石を建立することは、古来より提唱されていた高野山自体が浄土であるという信仰や、納骨信仰に端を発するものであると考えられますが、別の側面からみますと、この時期、守護や地頭による荘園侵略が横行したことによって、寺社などの荘園経営が危機的状況におちいり、特に戦国期において荘園は有名無実化していたという状況がありました。高野山の場合、各寺院が所有していた荘園寺領を、こうした押領から守るために、特定の有力な武士との間に、一種の檀家制度である師檀関係や宿坊契約を結び、それによって寺領の保全をはかったことが知られています。
 こうした武将と寺院との師檀関係からは、一族などの墓石や供養墓を建立することとなり、武田家については成慶院、徳川家は蓮花院、真田家は蓮華定院といったように宿坊契約が結ばれていました。それに伴って寺院に対して刀や肖像画、遺愛品などを奉納している場合も少なくありません。
 この度の特別陳列では、一部ではありますが師檀関係にある寺院に奉納された武将の肖像画である武田信玄像、浅井長政像、真田幸村像をはじめとして、それらの関係遺品や、また高野山との関わりの中での、秀吉朱印状や天正16年(1588)7月8日付の「刀狩令」なども展示し、時代の変化に即応しながら護持されてきた高野山の歴史の一端を概観していただければと思います。

北条早雲像

 北条早雲像 高室院
 北条早雲という名前は実は正確ではないとも言われていまして、「伊勢宗瑞」本名は「伊勢新九郎盛時」とも言われています。また早雲の出自もよく分かっていませんが、どうも備中の出身らしいのです。それが戦国時代の幕開けを告げる明応2年(1493)に伊豆に乱入し、伊豆・相模の小田原北条氏の初代戦国大名となったわけです。早雲の場合、いっかいの素浪人であったともされていまして、そうした人物が主家を滅ぼして一国を支配した、いわゆる下克上の代表として斎藤道三とともに有名な武将です。
武田信玄像

武田二十四将図 成慶院
武田信玄が率いる常勝無敵・武田軍団の中核として、つねにその精鋭部隊の陣頭に立ち、幾多の合戦で華々しい活躍をみせ天下に勇名を轟かせた猛将二十四人です。この二十四将がいつごろ成立したかは資料に乏しく明確にはされていませんが、江戸時代中期頃には流布されていたと考えられています。二十四将群個々の事績をみますと、武田信玄がいかに優れた有能なブレーンに囲まれていたかを知ることができます。 武田二十四将図 武田二十四将図

長尾景虎像

長尾景虎像(上杉謙信)清浄心院
 上杉謙信と武田信玄とは、戦国群雄中の双璧としてその名は広く知られています。それは五度に及ぶ史上名高い川中島の合戦にはじまり西上野、武蔵の合戦と、生涯にわたり互角に戦い、おたがいに一歩も譲らなかったということによるのだと思います。そのため謙信は″越後の龍″と評されました。
 死に臨んだ武田信玄は勝頼に「謙信は力になってくれる男」と遺言し、また信玄の死を知った謙信は、「予にとって年来の敵であるが、・・・誠に英雄の将というべき者であった。わが好敵手を失ったことは無念至極」と涙を落としたといいます。
 一般によく知られています上杉謙信の姿は、出家していることから僧衣に袈裟を着けて刀を膝の横に置くのですが、本像は甲冑姿の如何にも凛々しい姿で表される比較的珍しいものです。

真田氏について    写真は真田幸村像 蓮華定院

真田幸村像

 信濃国の豪族で、近世、松代藩主となった真田氏は、信濃の古代からの豪族滋野氏といわれています。十五世紀初めに実田(さなた)氏の名が見えますので、おそらく現在の長野県小県郡真田町あたりを根拠に中世から勢力を持っていたと考えられます。
 戦国時代の真田家には幸隆が出て、後には武田氏に招かれ、武田二十四将の内に数えられるほどに武田氏の信州攻略に大さな役割を果たし、その後も信綱・昌輝・昌幸が出て、ともに武田氏に仕えました。中でも信綱は信濃衆随一の武将といわれましたが、長篠の戦で昌輝とともに討死。そこで武藤氏をついでいた昌幸が復姓して家督を相続し、上田を領し上野国沼田域をも勢力下に入れました。
 武田氏滅亡後は織田信長に属して本領を安堵され、「本能寺の変」後には徳川氏につきましたが、徳川家康に北条氏政へ沼田城を返すよう命ぜられ、これに同意せず徳川氏と戦いました。その後豊臣秀吉に属し、小田原征伐・文禄の役などに参陣し、この間に昌幸の長男信之は家康が養女とした本多忠勝の娼をめとり、徳川氏との関係を深めていきました。 一方次男の信繁(幸村)は秀吉の近侍になり豊臣氏に仕えました。慶長五年(1600)の関ケ原の戦では、昌幸・信繁父子は西軍に与し、東山道を西上する徳川秀忠の軍を上田域で防ぎました。
 これに対し信之は東軍に属して秀忠とともに父と弟を攻撃しました。戦後、信之の嘆願により、昌幸・信繁父子は一命をとりとめましたが、ご存じのように高野山麓九度山に幽閉されます。信之は戦功によって上田城主に任ぜられ、旧領とあわせて九万五千石を領することとなりました。父昌幸は九度山で没しましたが、幸村は豊臣秀頼の挙兵に応して慶長十九年(1614)に大坂城に入城し、大坂方の中心となって戦い、翌年の夏の陣では一時家康を窮地に陥れるに至りましたがついに戦死しました。この間に兄の信之は冬の陣では徳川方の先鋒、夏の陣では天王寺口に出陣して戦功をあげました。信之は元和八年(1622)十二月に四万石を加増されて信濃国松代に転封され、松代十万石と沼田三万石を領す初代松代藩主となるまでにいたりました。のちに沼田領三万石は長男信吉に分封し、松代領十万石は次男信政につがせました。沼田の真田氏は信音が宝永四年(1707)に没した折、跡縦ぎがなかったため改易されました。一方信政の子孫は代々松代藩主として江戸城に詰め、十万石を世襲すること九代に及び、幕末には幸官が老中となり、彼は佐久間象山を登用したことでも有名です。
県指定 真田幸村自筆書状 蓮華定院

真田幸村自筆書状
 真田幸村が九度山より、京都に釆ていた家臣の河原左京に宛てた娩酎の無心状です。

 壷に焼酎を詰めて欲しいこと。しかも一杯まで入れて壷の口をしっかり目張りしておいて欲しいこと。そのお礼として、ゆかたびらを一枚進呈すること。などが記されている。

 
番号
指定 品質 名称 員数 時代 所有寺院
1
未指定 絹本著色 北条早雲像 一幅 江戸時代 高室院
2
未指定 絹本著色 武田二十四将図 一幅 江戸時代 成慶院 
3
未指定 絹本著色 長尾景虎像(上杉謙信) 一幅 江戸時代 清浄心院
4
未指定 紙本著色 高野山絵図 三幅 江戸時代 西南院
5
未指定 絹本著色 真田幸貫像 一幅 江戸時代 蓮華定院
6
未指定 絹本著色 真田幸専像 一幅 江戸時代 蓮華定院
7
未指定 絹本著色 真田幸弘像 一幅 江戸時代 蓮華定院
8
未指定 紙本墨書 武田勝頼公寄進状 一巻 室町末期 成慶院
9
未指定 紙本墨書 武田信玄禁制書 一紙 桃山時代 持明院
10
国宝 紙本墨書 興山上人応其覚書(続宝簡集巻第五一) 一巻 桃山時代 金剛峯寺
11
国宝 紙本墨書 豊臣秀吉朱印状(続宝簡集巻第三七) 一巻 桃山時代 金剛峯寺
12
未指定 紙本墨書 秀吉刀狩朱印状 一通 桃山時代 金剛峯寺
13
未指定 紙本墨書 徳川家康書状 一巻 江戸時代 清浄心院
14
国宝 紙本墨書 源頼朝書状(宝簡集巻第二) 一巻 鎌倉時代 金剛峯寺
15
国宝 紙本墨書 源義経書状(宝簡集巻第三三) 一巻 鎌倉時代 金剛峯寺
16
重文 絹本著色 浅井久政像 一幅 室町時代 持明院
17
重文 絹本著色 浅井長政像 一幅 室町時代 持明院
18
重文 絹本著色 浅井長政夫人像 一幅 室町時代 持明院
19
未指定 絹本著色 武田信虎像 一幅 桃山時代 持明院
20
未指定 影印本 武田信玄公寿像(複製) 一幅 昭和時代 成慶院 
21
未指定 木造 梨地金銀蒔絵采配串 一本 室町時代 成慶院
22
未指定 木造 梨地武田菱文蒔絵文箱 一合 桃山時代 成慶院
23
未指定 金銅製  五鈷鈴(松虫鈴) 一個 江戸時代 成慶院
24
未指定 絹本著色 武田勝頼妻子像 一幅 桃山時代 持明院
25
未指定 絹本著色 武田晴信(信玄)像  一幅 桃山時代 持明院
26
未指定 紙本墨書 武田信玄公御奉納目録  一通 江戸中期 成慶院
27
未指定 木造 弁才天十五童子像 一基 桃山時代 成慶院
28
未指定 木造 大威徳明王像 一躯 桃山時代 成慶院
29
未指定 絹本著色 応其上人像 一幅 江戸時代 蓮華定院
30
重美 絹本著色 太閤秀吉像 一幅 江戸時代 蓮華定院
31
未指定 紙本墨書 豊公高野参詣諸大名連歌 二帖 桃山時代 宝寿院
32
未指定 絹本著色 真田信幸像 一幅 江戸時代 蓮華定院
33
未指定 絹本著色 真田信幸夫人像 一幅 江戸時代 蓮華定院
34
未指定 絹本著色 真田幸村像 一幅 江戸時代 蓮華定院
35
県指定 紙本墨書 眞田幸村書状 一巻 桃山時代   蓮華定院
36
未指定 金銅製  兜(真田幸村所持) 一頭 江戸前期 蓮華定院
37
未指定 金銅製  轡・付属鏈(真田昌幸所持) 二個 江戸時代 蓮華定院
38
未指定 木造 徳川家康坐像 一躯 江戸時代 金剛峯寺
39
未指定 銅製 徳川家霊台鎮壇具 一具 江戸時代 金剛峯寺

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