第6回大宝蔵展-「源平の時代と高野山」-展示リスト
昭和60年9月14日~11月4日
ごあいさつ

久安五年(一一四九)五月に高野山大塔が雷火によって炎上した。その時に在山した高野御室覚法法親王の奏請により、早速大塔を再建せよとの宣旨を賜わり、平忠盛が再建奉行を命ぜられ、その子清盛が父に代って事に当り、保元元年(一一五六)大塔は落慶した。その時に清盛がつくらせた、いわゆる血曼荼羅がのこっている。その清盛が養和元年(一一八一)に死去し、翌年平家は都落ちし、文治元年(一一八五)三月長門の壇ノ浦に亡びた。まことに平家の栄華は短かかった。その年から今年で八百年になる。翌文治二年(一一八六)四月後白河院の院宣により平家の怨霊の追善法会を平家縁りの高野山大塔で修した。仏餉灯油料として備後の太田庄が寺領として寄進された。
それから一世紀後に覚□の努力によって高野山麓の慈尊院から高野山上まで胎蔵界百八十本、大塔奥院間に金剛界三十七尊を象徴する町石三十六本(奥院御廟を加えて三十七尊を象徴する)が建立された。これは高野山を内院とする立体曼荼羅とも見られる。落慶供養は弘安八年(一二八五)に行なわれ、その時の供養願文がのこっている。この道は高野山参詣の最古の表参道であって、弘法大師信仰の道である。町石が建立されて今年で七百年になる。
今般平家と町石に関する仏画類・文書類を展示して、中世における高野山が日本文化に貢献した跡を偲び、弘法大師の遺徳を称えることはまことに有意義であると信じ、ご挨拶といたします。
それから一世紀後に覚□の努力によって高野山麓の慈尊院から高野山上まで胎蔵界百八十本、大塔奥院間に金剛界三十七尊を象徴する町石三十六本(奥院御廟を加えて三十七尊を象徴する)が建立された。これは高野山を内院とする立体曼荼羅とも見られる。落慶供養は弘安八年(一二八五)に行なわれ、その時の供養願文がのこっている。この道は高野山参詣の最古の表参道であって、弘法大師信仰の道である。町石が建立されて今年で七百年になる。
今般平家と町石に関する仏画類・文書類を展示して、中世における高野山が日本文化に貢献した跡を偲び、弘法大師の遺徳を称えることはまことに有意義であると信じ、ご挨拶といたします。
昭和六十年九月十四日 高野山霊宝館長 山本 智教