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高野山文化財年表 明治時代
明治維新の神仏分離政策により、天野社の宋版一切経3850巻が高野山勧学院宝庫に移された。
- 1869年 明治2年
- 3月29日
青厳寺・興山寺を合併して金剛峯寺と号する。
- 11月3日
高野山に神仏分離の通達が下る。
- 1870年 明治3年
- 1872年 明治5年
- 興山寺全焼。
- 5月
太政官布告をもって高野山女人禁制廃止命が下る。しかし実際に居住が認められたのは明治39年(1906年)とする。
- 7月
高野山で郵便事務が始められた。
- 1877年 明治10年
- 1879年 明治12年
- 1882年 明治15年
- 1883年 明治16年
- 宮内省図書寮で高野山文書の調査が行われ、その一部が展覧された。
- 2月
大雪となり、山内は約1.5メートルの積雪となった。
- 1884年 明治17年
- この年、高野山とその周辺の13ヶ字が合併して高野村となる。
この年、谷上の蓮金院焼失。
- 2月
西院と恵光院から出火。50ヶ寺、130戸に類焼する大火になったと。
- 1886年 明治19年
- 1888年 明治21年
- 3月23日
午前12時30分頃、一心院谷の南院裏山より出火、同院へ火移り、直ちに高祖院、東室院へと移り、続いて正塔院、六町院、幸福院、康徳院、福智院、蓮花院、宝積院、正覚院、金剛院、興山寺、◆覚院、定光院、西生院、無量光院、本王院、普門院、一乗院、光輪院、如意輪寺、金蔵院、愛染院、安楽院、安養院、巴陵院、三室院、普賢院、報恩院、明泉院、乗蔵院、圓満院、弥勒院、常住院、医王院、覚證院へと類焼。さらに五ノ室、千手院、小田原地区の上之段(現、高野山大学)の町家へも類焼し、午後5時頃鎮火。その時、金剛峯寺の屋根へも飛火して、一時は類焼するかと思われたが、かろうじて消し止めることができた。この火災によって、大寺21ヶ寺、中小寺院30ヶ寺、民家70余戸が焼失した。
「金剛峯寺 日並記」「明教新誌(明治21年3月30日号)」
- 3月24日
午前12時30分頃、蓮花谷の恵光院前、増福院より出火。直ちに大明王院、光明院、尭住院、常慶院、千蔵院、五大院、誠願院、持宝院、丹生院、岩本院、東根院、萬福院、蓮花三昧院へと類焼し悉く焼失。この時、蓮花谷民家も残らず焼失。東谷の奥之坊を除いて悉く皆焼亡し、午後5時頃漸く鎮火。
「金剛峯寺 日並記」
- 両日の火災で、堂宇、仏像画像書跡什宝悉く焼失。この火災によって国宝・五大力菩薩像五幅のうち二幅を焼失。什宝物焼失御届(有志八幡講)によると、勅額(後陽成帝宸筆「八幡大菩薩」、熊手八幡宮縁起、三社神号などが大明王院に預けられていたところ同寺類焼した際に焼失。両日の火災等にて明治初期に680余ヶ寺あった寺院は明治28年になると130ヶ寺まで減少し、廃絶した堂社は40軒を数え、現存するのは30軒に満たないほどとなった。
- 4月18日
有志八幡講より和歌山県知事宛に五大力菩薩像などの焼失に関する「什宝物焼失御届」が提出される。
- 宮内省に臨時全国宝物取調局が設置され、古文書・絵画・彫刻・美術工芸・書蹟についての調査と鑑査状の発行が進められた。高野山関係は28通。
- 高野山の寺院合併第3回が行われる。
- 1891年 明治24年
- 6月15日
宮内省臨時全国宝物取調局より重要宝物の鑑査状交付される。
伝薬師如来像・板彫胎蔵曼荼羅・板彫両界曼荼羅・釈迦八大菩薩・普賢延命坐像(金堂)・虚空像坐像(金堂)・飛行三鈷・深沙大将像・金剛大将立像・善女龍王像・成身会八葉春日厨子・手箱・経箱・枕本尊釈迦如来・天鵞絨打敷・血曼荼羅・涅槃像・金剛王菩薩坐像(金堂)・金剛サッタ坐像(金堂)・薬師坐像(金堂本尊)。
- 1893年 明治26年
- 5月28日付
鑑査状交付される。
四天王立像(快慶作)、阿弥陀如来像(北谷院内堂本尊)、八大童子像、鬼面九鈷、即身義、弘法大師肖像、五鈷、三鈷。
- 1894年 明治27年
- この年、桓武天皇御祭典奉賛宝物展を金剛峯寺にて開催、百数十点を公開。
- 1895年 明治28年
- 3月28日〜5月15日
高野山什宝展覧会を開催する。会場は持明院、金堂、金剛峯寺。
- 1896年 明治29年
- 宮内省に古社寺保存会が設置され、古社寺保存のための法律制定の作業が始められる。
- 1897年 明治30年
- 古社寺保存法が制定される。
- 12月28日付
重文・絵画狩場明神像一幅竜光院国宝・絵画勤操僧正像一幅普門院重文・絵画不動明王二童子像(赤不動)一幅明王院重文・絵画文殊菩薩像一禎宝寿院重文・絵画薬師十二神将像一幀桜池院国宝・工芸澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃一合金剛峯寺重文・書跡即身成仏品一巻金剛峯寺国宝・書跡大字法華経(第三巻欠)明算白点本七巻竜光院重文・彫刻阿弥陀如来立像一躯清浄心院重文・彫刻地蔵菩薩立像一躯成蓮院国宝・彫刻八大童子立像八躯金剛峯寺重文・彫刻不動明王坐像一躯親王院がそれぞれ(旧)国宝に指定される。
- 1898年 明治31年
- 高野山宝物調査始まる。
3年計画にて帝室博物館が高野山宝物調査を開始し、狩場明神画像、法華経(竜光院)、勤操大僧都画像(普門院)、薬師十二神将画像(桜池院)、阿弥陀如来坐像(清浄心院)、地蔵尊立像(成蓮院)等10数点が修復された。八大童子像、不動明王坐像(親王院)、阿弥陀如来立像(清浄心院)、地蔵尊立像(成蓮院)が美術院にて修復された。
- 2月2日
高野山興隆会の設立準備がなされた。設立は明治32年1月20日。
- 1899年 明治32年
- 4月5日付
国宝・建造物金剛三昧院多宝塔一基金剛三昧院、国宝・建造物金剛峯寺不動堂(伽藍)一棟金剛峯寺が(旧)国宝に指定される。
- 4月5日
御影堂宝庫の飛行三鈷杵盗難されるも、犯人が逮捕され無事返却される。
- 8月1日付
重文・彫刻狛犬像二躯天野社が(旧)国宝に指定される。
- 9月
金銀字一切経が興山寺裏の経蔵から金剛峯寺境内の大経蔵に移される。
- 1900年 明治33年
- 5月17日
高野山興隆会発会式が行われた。
- 7月20日
東京帝室博物館において臨時全国宝物取調局が開設され、寺院合併等により所有者等変更、紛失、焼失になった宝物を調査し、調書を提出する。
- 11月
紀和鉄道全通(和歌山ー五条)する。明治34年3月名倉(高野口)駅ができて、椎出・神谷・不動坂・高野山へとつながる「新高野街道」が開けた。
- 1901年 明治34年
- 5月1日
女人堂道路が改築された。
- 7月24日
東京帝国大学星野恒博士、辻善之助を従えて古文書調査に登山。
- 1902年 明治35年
- この年から高野山古文書調査始まる。
10年計画にて大日本史料編纂のため、黒板勝美博士を主査に三上参次、八代国治等による高野山古文書調査が行われ、数多くの貴重な資料が発見された。明治40年に同博士による「高野山文書について」が刊行された。
- 1903年 明治36年
- 1904年 明治37年
- 6月6日
東京大学史料編纂掛より宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集の全文が『大日本古文書・高野山文書』として活字化し出版される。
- 1905年 明治38年
- 1906年 明治39年
- 6月15日
開宗一千百年記念大法会を記念して高野山の結界残部のこらず解除し、実質の女人禁制解除される。
- 9月6日付
国宝・絵画阿弥陀聖衆来迎図三幅有志八幡講が(旧)国宝に指定される。
- 1907年 明治40年
- 4月14日付
彫刻弘法大師坐像三宝院が指定される。指定名称は不明。現在は県指定。
- 5月14日〜18日
高村光雲、今泉雄作、中川忠順各氏、宝物調査に登山。
- 7月29日
内務省新納忠之助氏国宝となる宝物調査のため登山。
- 11月22日付
金剛峯寺教議書より国宝指定に伴う調査のため内務省宗教局へ宝物38点送付。
- 1908年 明治41年
- 1月10日付
国宝(旧)に66点が指定される。
国宝・絵画阿弥陀三尊像一幅蓮華三昧院、重文・絵画紅頗梨色阿弥陀如来像一幅桜池院、重文・絵画九品曼荼羅図(当麻曼荼羅図)一幅清浄心院、重文・絵画高野大師行状図画(第一巻補写)六巻地蔵院、重文・絵画五大虚空蔵菩薩像一幅西南院、国宝・絵画五大力吼菩薩像(金剛吼・竜王吼・無畏十力吼)三幅有志八幡講、重文・絵画五大力菩薩像一幅北室院、重文・絵画地蔵菩薩像一幅宝寿院、国宝・絵画善女龍王像一幅金剛峯寺、重文・絵画大元帥明王像一幅西南院、重文・絵画大日如来像一幅金剛峯寺、重文・絵画当麻曼荼羅縁起一幅清浄心院、国宝・絵画伝船中湧現観音菩薩像一幅竜光院、重文・絵画丹生・狩場明神像二幅金剛峯寺、重文・絵画八宗論大日如来像一幅善集院、重文・絵画毘沙門天像一幅光台院、国宝・絵画仏涅槃図一幅金剛峯寺、重文・絵画不動明王三童子像一幅五坊寂静院、重文・絵画両界曼荼羅図(血曼荼羅)二幅金剛峯寺、重文・工芸花文刺繍打敷一枚全光院、重文・工芸金銅仏具(五鈷杵一・五鈷鈴二・三鈷杵三・独鈷杵二・独鈷鈴一)金剛峯寺、重文・工芸三鈷杵(伝・覚鑁所持)一箇宝寿院、重文・工芸成身会八葉蒔絵厨子一基金剛峯寺、重文・工芸厨子入倶利伽羅龍剣一口竜光院、重文・工芸厨子入金銅水神像一躯金剛峯寺、重文・工芸蓮華形柄香炉一柄竜光院、国宝・書跡細字金光明最勝王経二巻竜光院、国宝・書跡紫紙金字金光明最勝王経十巻竜光院、重文・書跡大毘盧遮那経巻第一一巻竜光院、国宝・書跡文舘詩林残巻一巻宝寿院、重文・彫刻愛染明王坐像一躯金蔵院、重文・彫刻阿シュク如来立像一躯親王院、重文・彫刻阿弥陀如来坐像一躯金剛峯寺、重文・彫刻阿弥陀如来坐像一躯地蔵院、重文・彫刻阿弥陀如来及両脇侍立像三躯五坊寂静院、重文・彫刻阿弥陀如来及両脇侍立像三躯不動院、重文・彫刻板彫胎蔵曼荼羅(金剛界蒔絵箱入り)二面金剛峯寺、重文・彫刻浮彫九尊像一面金剛峯寺、重文・彫刻孔雀明王像一躯金剛峯寺、重文・彫刻釈迦如来及諸尊像(枕本尊)一基普門院、重文・彫刻十一面観音立像一躯金剛三昧院、国宝・彫刻諸尊仏龕一基金剛峯寺、重文・彫刻大日如来坐像一躯釈迦文院、重文・彫刻大日如来像・阿弥陀如来坐像・釈迦如来坐像(谷上大日堂旧佛)三躯金剛峯寺、重文・彫刻大日如来坐像一躯安養院、重文彫刻大日如来像(元、勧学院安置)一躯金剛峯寺、重文・彫刻多聞天立像・持国天立像二躯遍照光院、重文・彫刻天弓愛染明王像一躯金剛峯寺、重文・彫刻兜跋毘沙門天像一躯親王院、重文・彫刻兜跋毘沙門天立像一躯竜光院、重文・彫刻如意輪観音菩薩坐像一躯如意輪寺、重文・彫刻毘沙門天立像一躯多聞院、重文・彫刻毘沙門天立像一躯普賢院、重文・彫刻屏風本尊六面竜光院、重文・彫刻不動明王坐像(元、護摩堂安置)一躯金剛峯寺、重文・彫刻不動明王坐像(元、伽藍不動堂安置)一躯金剛峯寺、重文・彫刻不動明王立像一躯金剛三昧院、重文・彫刻不動明王立像(波切不動)一躯南院、重文・彫刻不動明王立像(帆揚げ不動)一躯蓮上院、重文・彫刻文殊菩薩及使者像一基遍明院、重文・彫刻薬師如来坐像一躯高室院、重文・彫刻薬師如来坐像一躯五大院、重文・彫刻薬師如来坐像一躯龍泉院、重文・彫刻龍猛菩薩立像一躯泰雲院。
- 3月
国宝・阿弥陀三尊像蓮華三昧院、阿弥陀聖衆来迎図有志八幡講、修復完了。
- 4月20日
国宝・書跡宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集298巻15冊が(旧)国宝に指定される。
- 8月24日〜27日
「高野山宝物展覧会」開催。金剛峯寺、清浄心院、遍照光院、宝亀院、竜光院、西室院の各寺院にて400点にのぼる大規模な展覧会を開催。この時、宝物絵ハガキ(コロタイプ印刷)が発売された。
- 11月29日
金剛峯寺、国宝「不動堂」修復落慶供養厳修される。もとは一心院に建立されていたものを壇上に移築された。
- 1909年 明治42年
- 2月6日付
正智院文舘詩林指定に伴う調査のため内務省に貸出。
- 3月11日付
東京帝国博物館表慶館落成に伴い仏涅槃図、即身義貸出依頼。貸出期間1ヶ年。
- 4月〜
「高野山宝物展覧会」開催。
- 4月5日付
国宝・書跡文舘詩林十二巻正智院が(旧)国宝に指定される。
- 8月9日夜
高野山町家から出火。金剛峯寺前の徳善院、小学校を含め、民家十三戸が焼失。この時、金剛峯寺前の立木が防火林となり類焼を免れると。これ以降、金剛峯寺前を空き地とした。
- 12月
高野山に電話が開通。当時はわずか44回線のみであった。昭和35年にいたり電信電話局となる。
- 1910年 明治43年
- 持明院全焼。
- 1月20日
宝物館の建設が宿老会で決定された。
- 2月8日付
東京帝国大学史料編纂掛より古文書返還。
明治35年8月28日から明治40年10月借用分。金剛三昧院文書103件、蓮華定院34件、西南院6件、安養院1件、不動院5件、成福院3件、宝性院1件、金剛峯寺28件、遍照光院3件、桜池院23件、無量光院1件、宝城院17件、遍明院20件、大楽院1件、持明院30件、成慶院6件、泰雲院1件、西禅院1件。
- 8月1日
ゴルドン夫人、ボッター夫人高野山に登山。
- 1911年 明治44年
- 龍泉院、泰雲院、徳善院全焼。
- 宝物館建設趣旨の徹底のための秘宝展を金剛峯寺にて開催する。
- 1912年 明治45年
- この年、高野山索道が建設された。これにより食料や日常物資が山上まで短時間で運び上げられるようになった。昭和33年まで。
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