重文|三棟|金剛峯寺
山王院本殿は、伽藍大塔の西約100メートルの一段高い場所に位置し、その昔には、この辺りを御社山(みやしろやま)と呼んだそうです。
本殿の歴史は古く、弘仁10年(819年)5月3日、山麓の天野社より勧請されたと伝えられています。高野山が開かれたのが、弘仁7年(816)ですので、伽藍諸堂整備の中でも比較的早い時期に完成したのが、この地主神を祀る御社山王院本殿であったことがわかります。
本殿は向って右から「丹生明神社(一の宮)」「高野明神社(二の宮)」そして左端に十二王子百二十番神を祀る「総社(三の宮)」が並んで建っています。
昭和40年(1965年)5月29日、山王院本殿の名称で重要文化財に指定され、昭和53年(1978年)9月国庫補助事業二ヶ年計画の一環として、御社の解体修理が行われました(総社と鳥居は全解体、その他は半解体)。
そうしたところ高野明神社、総社より、大永2年(1522年)の墨書銘の記された部材が発見されました。つまり現在の社は、大永元年(1521年)に焼失した後に再建された建物ということが判明したわけです。
その後、約21年毎に檜皮(ひわだ)の葺替えや小修理を繰り返しながら現在に至っています。近年では、平成16年8月屋根の葺替え工事が終了し、同年9月19日、ご神体を遷座する上遷宮の儀式が二十数年ぶりに執り行われました。
山王院本殿の丹生、高野明神社の構造形式は、一間社春日造で、総社は三間社流見世棚造と呼ばれ、どちらも屋根は檜皮葺(ひわだぶき)となります。
春日造は奈良の春日大社本殿に代表されるもので、屋根が切妻造妻入の主屋の前に向拝をつけた形式をいいます。一間社とは、正面側面とも一間しかない小社を意味します。
一方、総社の流造とは、京都上賀茂、下鴨神社に代表される形式で、春日造の妻入に対して、切妻造平入となり、屋根を葺きおろして、そのまま庇としているのが特徴です。両者の形式には共通点を持ちながら、外観上では違った印象を与えています。
丹生・高野・総社の三社ともに、彩色が施されています。柱などの基本部材は朱色(丹塗)仕上げとし、長押(なげし)や虹梁(こうりょう)と呼ばれる部材などには各種の彩色絵(平彩色)などが描かれています。
下の絵は、繋虹梁(つなぎこうりょう)部に描かれているもので、波間に竜が描かれています。また長押(なげし)部には、さらに花弁文様が意匠されています。
これらの絵や図柄は、平成16年の屋根葺替え工事に際し、復元模写し記録することとなり、平成16年12月に完成しました。
部材の彩色は、経年によって褪色や、はがれ落ちていく運命にありますので、現時点でのトレースによる模写は、たいへん重要な事柄といえます。後世には、いずれこうした模写を参考に修理、復元されることになると思います。
このページは以上です。
Copyright 高野山霊宝館 All Rights Reserved