重文|秀康霊屋|一棟|(付属宝篋印塔 五基)|蓮花院|
同母霊屋|一棟|(付属宝篋印塔 二基)|昭和40年5月29日指定
徳川家康の側室で、「お万の方」と、その子、秀康の霊屋で、奥之院御供所(ごくしょ)の100メートル程手前の参道に建っています。
向って右が結城(松平)秀康を祀る霊屋であって、柱刻銘に「慶長十弐 丁未 暦閏四月八日令立之」とあり、慶長12年(1607年)、秀康の嫡男(ちゃくなん)忠直の造立になることが知られます。
また向かって左は秀康の母(お万の方・長勝院)のため、慶長9年(1604年)に秀康によって建てられたことが、柱刻銘に「施主越前太守建立□慶長九年□□□□□」とあることから判明します。二棟とも越前産の笏谷石を用いており、秀康霊屋は入母屋造、正面軒唐破風附とし、その母の霊屋は、切妻造(きりづまづくり)、妻入(つまいり)となっています。
なお、秀康霊屋内には宝篋印塔(ほうきょういんとう)五基が、母の霊屋内には宝篋印塔二基と五輪塔が納められています。
お万の方と秀康は、その父、家康の冷遇にあったとされています。秀康(於義丸)が11歳の時、お万ともども秀吉の養子となり(事実上の人質)、秀吉は秀康と名付けて可愛がったといいます。しかし、豊臣家が家康の実子に家督を継がせることになるのを懸念してか、後に越前の結城家の養子となりました。
徳川家を、弟、秀忠が継いだ際に、秀康に対して「松平」の姓を名乗ることを許したそうですが、秀忠自身は最後まで拒み、「結城」姓を名乗ったということです。慶長12年(1607年)秀康34歳で病没。
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