県指定|九棟|金剛峯寺|鎌倉時代|昭和40年4月14日指定
明治2年(1869年)3月29日、青厳寺(せいがんじ)・興山寺(こうざんじ)の二寺を合併して、現在のように総本山金剛峯寺と称するようになりました。
青厳寺は、文禄2年(1593年)豊臣秀吉の母、大政所(おおまんどころ)の菩提のために建立された寺院(学侶方)で、当初は剃髪寺(ていはつじ)と号しました。建立にあたって秀吉は、米を一万石と白銀三千枚を寄付しました。
一方、興山寺は、客僧や学校施設として、青厳寺が建てられる以前の天正18年(1590年)に、木食応其(もくじきおうご)上人によって建立されました。場所は後の青厳寺の隣であったわけです。その建設費は、天正17年(1589年)以来、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進であったといわれています。この時、後陽成天皇から「興山寺」の勅額を賜って、天皇の命によって国家安泰などを祈る勅願寺ともなりました。
青厳寺は寛永7年(1630年)10月7日に焼失(寛永11年(1634年)再建)し、さらに慶安3年(1650年)、万延元年(1860年)にも類焼しています。現在の建物は文久3年(1863年)に、約3年の歳月をかけて完成されたものです。
金剛峯寺の寺域は高野山のほぼ中央に位置しています。この場所は、もともと高野山第二世真然大徳の廟所(びょうしょ)でもありました。真然大徳廟の上には多宝塔が建てられていたのですが、いつしかお堂形式の建物に変わり、真然堂と呼ばれるようになりました。ところが昭和63年、真然堂が解体修理され、その際、堂基壇地中より平安時代初期の緑釉花文四足壺(納骨器)が発見されたことによって、以後、「真然廟」「伝燈国師廟」と呼称されることになりました。
現在の真然廟は、寛永十七年(1640年)八月十一日の上棟であることが、棟札や諸記録から判明しています。
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