秩父宮殿下(大正天皇第二皇子雍仁親王、当時21歳)が高野山を行啓され、霊宝館において高野槇(金松)を植樹されました。当時交通機関は山上までは通じておらず(昭和5年高野線山上まで開通)高野山の麓、椎出(九度山町)から徒歩であったと記録されています。
写真左:『高野山時報』第302号大正12年6月15日号より複写
写真右:大樹となった御手植え高野槇
「秩父宮殿下には5月26日午前8時橋本駅着渡邊御用掛潮御附武官を随へさせられ直ちに自働車に搭乗、高野口を経て椎出に御着。小憩もあらせられず御徒歩にて滋岡警察部長の御先導にて御登山の途につかる。金剛峯寺よりは天野文書課主任御出迎申し上げた。殿下の御健脚なるには随員一同感嘆の外なかつた。
殿下には四方の景色を賞せられつヽ鼠色の背広に麦藁帽といふ御軽装に汗もめされず、亀の茶屋にて紀の川を望み其の景色の雄大なるに微笑まれたのみにて一気に御登山、予定より30分早く高野山女人堂に御着。高野山にては鎌田大僧正は藤村、湯崎の二執行を随へ女人堂に御出迎申し、寺院法印前官上網等重職法務所教義諸役員山内官公吏、大中学生、修道院生、小学生、軍人会、青年会、消防組、婦人会等の順にて西室院前より警察前金剛峯寺前までは一般奉迎人の堵列をなした。
殿下には女人堂にて人力車をお召になり警察部長御先導にて奉迎人に親しく帽を脱ぎて会釈あらせられ金剛峯寺御着、鎌田座主の御先導にて奥書院に入らせられ、直ちに御風呂を召されて御機嫌殊の外麗しく拝せられた。精進料理に御昼食を召され一時御出門人力車にて霊宝館に御成り井村主事より一々御説明申し上げれば仏像仏画等の前には御会釈あつて芸術に非常に御趣味あらせらるるやに拝せられた。
霊宝館に高野槇を御手植あり、大門、金堂を御参観あり、奥の院中之橋にて御徒歩にて歴代御陵、奥之院に御礼拝あり。午後3時すぎより不動院前美福門院御陵、光台院附近の道助親王御墓、覚法親王御陵に御礼拝あらせられ途中堵列の人々に対し御満足の態に卸会釈を賜ひつつ午後四時女人堂に御着あり往路の通り御徒歩にて御下山あらせられ椎出より自動車にて高野口駅御着。午後6時20分高野口駅発和歌山線にて和歌山市に成らせられた。因に金剛峯寺よりは『霊宝帖』、『高野山千百年史』、菩提樹念珠、高野村より、柳はし一箱、高野山大中学より御年譜、区民より高野豆腐一箱、小堀氏より、かやの油等献上申し上げた。」
『高野山時報』第302号宗内時事より
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